107話 姉弟喧嘩
アサは、地面に片膝をついたまま、荒い息を繰り返していた。
「まだ……!」
震える脚に力を込め、再び立ち上がる。
確率を歪める力は、既に何度も使い切りかけていた。
それでも、目の前の弟から、目を逸らすことだけはできなかった。
「まだ立つんですか。付き合いのいいことですね」
そらは、涼しい顔のまま、影の刃を構え直した。
「そら……お願い、目を覚まして……!」
「何度も言っているはずです。僕は、これが、自分で選んだ道だと」
そらの声には、揺るぎない――はずだった。
だが、その言葉とは裏腹に、放たれる影の刃の切れ味は、先ほどよりも、明らかに鈍っていた。
(――なんで)
アサは、その微かな違和感に、気づかずにはいられなかった。
「そら、あなた」
「……黙っていてください」
「本当は、迷ってるんじゃないの……!」
その一言に、そらの動きが、初めて明確に止まった。
「――何を、根拠に」
「わかるわよ。だって、私の弟だもの」
アサが、震える声で、それでも真っ直ぐに告げた。
その瞬間だった。
構内の奥、崩れ落ちた壁の隙間から、まばゆい光が溢れ出した。
「――なに……!?」
アサとそらが、同時にそちらへ視線を向ける。
光の中心に、ゆっくりと、一人の女性の姿が浮かび上がってきた。
質素な白い衣に身を包み、長い髪を風に揺らしながら、その人は、崩れた瓦礫の上に、静かに降り立った。
「――ふう。やっと、外の空気ね」
その声を聞いた瞬間、アサの体が、大きく震えた。
「……お母、さん……?」
「アサ。それに、そら」
おとはは、瓦礫の中に佇む二人の子供を見渡すと、困ったように、それでいて、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「二人とも、随分と派手な喧嘩をしてるのね」
「そうか、マダーがやられてしまったから……!」
そらの声が、明らかに動揺していた。
「あら。あなた達がかけた封印、随分と綻んでたわよ。……あなた自身の心が、揺れてたからじゃないの?」
おとはの言葉に、そらは、何も言い返せなかった。
「お母さん……!」
アサが、堪えきれないように、駆け寄ろうとする。
「待って、アサ」
おとはは、優しく、しかしはっきりと片手を上げて、それを制した。
「先に、そらと話をさせて」
「でも……!」
「お願い」
その声には、有無を言わせない、母親としての静かな強さがあった。
アサは、唇を噛みしめながら、その場に留まった。
おとはは、ゆっくりと、そらの前へと歩み寄っていく。
「――そら」
「……近づかないでください」
そらが、影を構え直しながら、後ずさる。
だが、その足取りは、明らかに乱れていた。
「大丈夫。攻撃なんて、しないわ」
おとはは、両手を広げたまま、それでも一歩ずつ、確実に距離を詰めていった。
「あなたに、謝らなきゃいけないことが、たくさんあるの」
「……今更、そんな」
「今更でも、言わせて」
おとはの目に、初めて、涙が滲んだ。
「あなたが苦しんでるのに、気づいてあげられなかった。母親失格よね、本当に」
「――やめてください」
そらの声が、初めて、明確に震えた。
崩れかけた新宿駅の構内に、母と、その二人の子供だけが、静かに向き合っていた。
戦いの喧噪が、一瞬だけ、その場から遠のいたような錯覚を、アサは覚えていた。




