100話 戻す魔法
「――アオイ」
崩れ落ちた書斎の残骸の中、ハルトは、震える膝を叱咤しながら立ち上がった。
「僕に、考えがある」
「考え……?」
「アオイの護りの力、あれは、繋ぎ止めるための力なんだよね。チハルちゃんにやったみたいに」
「はい。……ですが、この力は、相手の中にある"戻りたい"という気持ちに寄り添う力です。アキラ様に、その気持ちが残っているとは、思えません」
アオイの声には、迷いのない諦観があった。
「うん。多分、アオイの言う通りだと思う」
ハルトは、意外にもあっさりと頷いた。
「あの人は多分、変わってない。人間の時からずっと。だから――」
ハルトは、荒い呼吸の合間に、なおも言葉を続けた。
「気持ちに訴えるんじゃなくて、力尽くで押さえ込む。アオイの力、そういう使い方もできないか?」
「……力尽くで」
アオイは、一瞬だけ目を見開いた。
「戻りたいかどうかなんて、関係ない。私が、戻す。それだけでいいんですね」
「うん」
「――やってみます」
獣が、再び咆哮を上げながら、崩れた壁の隙間から巨腕を伸ばしてくる。
「時間を作る……!」
ハルトは、残った力の全てを右手に集中させた。
東京駅でカイトに放った、あの光の魔法。
あの時よりも粗く、不安定な光だったが、それでも今、出せる最大のものだった。
「――うおおおおっ!」
光弾が、獣の顔面を正面から捉える。
怯んだのは、ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
「アオイ、今……!」
「はい……!」
アオイは、両手を大きく広げ、意識を一気に集中させた。
淡い光が、彼女の手から放たれ、獣の巨体を包み込んでいく。
今度は、優しさのためではない。
楔を打ち込むような、強引な光だった。
「あなたが、何を思っていようと構いません」
アオイの声はこれまでになく硬く、揺るぎなかった。
「あなたはもう二度と、チハルにも、他の誰にも、これ以上のことをさせません。だから――戻ってもらいます」
光が獣の輪郭を、内側から強引に押し込めていく。
「――ぐ、るる……!」
抵抗するように、獣が身をよじる。
だが光は緩まなかった。
「あなたの意思なんて、聞いていません」
アオイは、繰り返した。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
「――終わりです、アキラ様」
その一言と共に、アオイの光が一際強く輝いた。
「がぁああああああッ……!」
断末魔にも似た絶叫を最後に、獣の巨体が、まるで空気が抜けるように急速に縮んでいった。
黒く爛れていた皮膚が、元の人間の肌へと戻っていく。
伸びていた爪も、翼も、跡形もなく消えていった。
そして、痩せ細ったアキラの体が、糸の切れた人形のように、瓦礫の上へと崩れ落ちた。
わずかに開いた唇の端に、微かな笑みが残っていた。
反省でも、後悔でもない。
むしろ、何か面白いものを見た後のような、乾いた笑みだった。
「……終わった……?」
ハルトは、その場に膝から崩れ落ちながら、掠れた声で呟いた。
アオイが、震える足取りでアキラに駆け寄り、その胸に手を当てる。
「……息が、あります」
「……良かった……」
安堵の息を吐いた瞬間、屋敷全体を包んでいた重苦しい気配が、まるで潮が引くように消えていった。
――結界が、解けた。
「ハルト君! アオイさん!」
砕けた玄関の方から、アサとヒマリの声が響いてくる。
「――アサ! 先輩!」
ハルトが声を張り上げると、瓦礫を踏み越えながら、二人が駆け込んできた。
「一体、何が……! 結界が急に消えたと思ったら、この惨状はどういうこと……!?」
ヒマリが、崩れ落ちた書斎を見渡し、絶句する。
「無事なの、二人とも……!?」
アサが、血だらけのハルトの姿に、悲鳴じみた声を上げた。
「大丈夫……ギリギリだったけど、なんとか」
ハルトは、力なく笑ってみせた。
眠るチハルと、意識を失ったアキラ。
そして、満身創痍のハルトとアオイ。
崩れ果てた栗島邸の中に、ようやく、静けさが戻ってきていた。
だがその静けさの中で、アオイだけは、倒れたアキラの顔から目を離せずにいた。
彼の口元に残った、あの笑み。
それが、何を意味するのか――アオイには、まだわからなかった。




