98話 ヒーローに救済を
「――チハル。お願い、こっちを見て」
アオイは、妹の頬に、そっと両手を添えた。
黒く染まりかけていた瞳が、焦点を失ったまま、宙をさまよっている。
だが、その奥に、まだ確かに、妹自身の光が残っているのがわかった。
「怖い夢を見てるだけだから。目を覚まして」
アオイの声が、震えながらも、確かな芯を持ち始める。
「覚えてる? 私が初めてこの家に来た日のこと」
「……ぁ……」
「あなたは私が来た事をとても喜んでくれた。私もあなたと過ごす毎日が、とても楽しかったんだ」
アオイの目に一筋の涙が浮かぶ。
「ねぇチハル。あなたにそんな力は必要ないの。だって、チハルは強い子。一人になってしまった私を救ってくれた、大切な妹なんだから」
その言葉に、チハルの体から立ち上っていた黒い陽炎が、ふっと、揺らいだ。
「お、ねえ、ちゃん……」
譫言ではない、はっきりとした声だった。
「うん。私だよ」
アオイが、涙を堪えながら微笑む。
「もう大丈夫。……ゆっくり休んで」
その瞬間、チハルの体を包んでいた黒い脈動が、まるで潮が引くように、すっと収まっていった。
見開かれていた瞳から力が抜け、瞼が、ゆっくりと閉じていく。
「……チハル?」
チハルの体が、糸が切れたように、アオイの腕の中へと崩れ落ちた。
穏やかな寝息が、静かに書斎に響く。
「――良かった……」
アオイは、妹を抱きしめたまま、深く息を吐いた。
全身から、力が抜けていくのがわかった。
だが、その安堵は、長くは続かなかった。
「感傷に浸っているところ申し訳ないが、主が今にも倒れそうになってるよ、アオイ」
アオイはアキラの言葉に顔を上げると、そこにはほとんどダメージを受けてないないアキラと、全身傷だらけのぼろ雑巾のようになっているハルトの姿があった。
「ハルト君!」
アオイは叫ぶ。
「よか……った。チハルちゃん……抑えられたん……だね」
「はい。……ハルト君、その状態で戦ってはいけません。あとは、私にお任せを」
「ダメだよ……アオイ……僕は……アオイと……チハルちゃんを……守るって……決め……た……」
ハルトはバタリと倒れてしまった。
「ハルト君!」
アオイはハルトを抱きかかえた。
「良い景色だよ、アオイ。この場でお前はまた、一人ぼっち。あの時の繰り返しだよ」
「……黙れ」
「あの時、君は何て言って泣いてたっけ」
「黙れ」
「……そうそう。そうだった。お母さん、私のこと忘れちゃったのぴえーんって静かに泣いてたねえ」
「黙れ黙れ」
「いやぁ。非常に惨めで滑稽な姿だったよ。君は強がるのが得意だ。おや? それはそこで転がっている主も同じだったかな?」
「黙れ黙れ……黙れ!」
アオイはそう言って、アキラに向けて強力な魔法を放つ。
しかし、アキラはひょいとそれを軽くかわしてしまった。
「ハハッ。せっかくだ。アオイにはいいものを見せてやろう」
アオイは気が付くと、アキラの右手に2本目の注射器が握られていた。
アオイは警戒してアキラから間合いを取る。
「もう、そんなに離れないでよ。冷たい娘だねぇ」
アキラはそう言いながらにやりと笑う。
二本目の注射器が、アキラ自身の首筋へと突き立てられていた。
「あ……ああああああッ……!!」
獣の咆哮のような絶叫が、書斎中に響き渡る。
アキラの体が、これまでとは比較にならない速度で膨張し、変貌していく。
灰色だった皮膚は黒く爛れ、背の翼は骨格ごと肥大化し、両腕からは、鋭い刃のような爪が伸びていった。
「アキラ……! なんで、自分にまで……!」
「アオイ、君のために俺は誠意を見せているのだよ! わかるかい!?」
譫言のような叫びにも、まだ幾ばくかの理性が残っているようだ。
しかし、彼の悪魔化の姿の金色の瞳は、赤黒く濁り、焦点を失っている。
「アキラ……!」
アオイが、倒れているチハルとハルトを庇うように立ちながら、悲鳴じみた声を上げた。
理性の残滓が、一瞬だけ、その顔に浮かぶ。
だが、それもすぐに、狂気の唸り声にかき消されていった。
「――ぐるるるるるッ……!」
もはや、言葉すら発することのない、完全な獣と化したアキラが、書斎の天井を突き破りながら、大きく身を反らした。
砕けた木材と埃が、辺り一面に降り注ぐ。
――結界の中に、閉じ込められたまま。
――外にいるはずの、アサとヒマリの助けも、まだ届かない。
咆哮を上げ続ける、正気を失った巨大な影を見上げながら、アオイは、高速で頭を回転させた。




