97話 変身
「――チハル! 私の声、聞こえる!?」
アオイが叫びながら、変貌していく妹へと駆け寄った。
チハルの体からは、既に制御を失った黒い魔力が、陽炎のように立ち上っている。
皮膚の下を脈打つ血管が、より深い黒へと染まっていく。
「あ、あ、ぁあああ……!」
譫言だったチハルの声が、次第に獣じみた唸りへと変わっていく。
「さて、俺も変身しようかな?」
「なに!?」
アキラの身体から黒い靄のようなものが出現した。
靄はアキラの全身を包み込んでいく。
「俺はさぁ、戦隊物の変身のシーンが嫌いなんだよ」
アキラは毒のようなセリフを吐いた。
「戦隊物の変身は、全ておもちゃみたいな感じがして、見てるこっちが薄ら寒いんだよなぁ」
アキラの身体を覆っていた黒い靄が消えていく。
「だからこそ、現実の変身は臨場感が重要だと思うんだよなぁ。そうだろう? 秋津家の後継ぎさん!」
靄の中から出てきたのは、化け物だった。
栗島アキラは、『マダー』になったのである。
「――じゃあ始めようか」
アキラが、楽しそうに言うと、灰色の腕を振り上げ、ハルトを薙ぎ払おうとした。
「――っ!」
ハルトは咄嗟に両腕を交差させ、光の膜を展開する。
だが、力の差は歴然だった。
膜ごと弾き飛ばされ、書斎の壁に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
「ハルト君!」
アオイが振り返りかけるのを、ハルトは声を張って止めた。
「見なくていい……! 僕は大丈夫だから、チハルちゃんに集中して……!」
「でも……!」
「アオイにしかできないことだろ、それは!」
ハルトは、痛む体を叱咤するように立ち上がり、再びアキラの前へと踏み出した。
「――アキラ、お前の相手は、僕がする」
金色の目が、値踏みするようにハルトを見下ろす。
「ほう、面白いねぇ。俺とは違って君は、戦隊ヒーローにでも変身してくれるのかなぁ?」
「さあね。でも、アオイの邪魔だけは、させない」
ハルトは、右手に光を集めた。
まだ制御は拙い魔法。
だが、今は、それしかない。
「――行くぞ!」
放たれた光弾が、アキラの肩口を掠める。
決定打には程遠い。
だが、その一撃に、アキラの意識が確かに引き寄せられた。
「へぇ……面白いもの持ってるじゃん!」
アキラの拳が、再びハルトへと振り下ろされる。
ハルトは、それを紙一重で躱しながら、心の中で叫び続けていた。
(時間を稼げ……! アオイが、チハルちゃんを取り戻すまで……!)
一方、アオイは、妹の体に両手をかざし、必死に意識を集中させていた。
「――お願い、聞いて、チハル」
自らの家に伝わる、"護り"の術式。
攻撃のためではなく、誰かを庇い、繋ぎ止めるための力。
実際に使うのは、これが初めてだった。
震える手のひらから、淡い光の粒子が、チハルの体へと注ぎ込まれていく。
「あああああっ……!」
チハルが、苦しげに身をよじる。
薬の力と、アオイの術式が、体の内側でせめぎ合っているのが、傍目にもわかった。
「……お姉、ちゃん……?」
一瞬だけ、チハルの声に、獣の唸りではない、本来の響きが混じった。
「うん! チハル、アオイだよ!」
アオイは、声を震わせながら、もう一段強く、術式に力を込めた。
「思い出して。あなたが誰なのか。……お父さんに虐げられて育った、可哀想な子供なんかじゃない。あなたは、栗島チハル。私の、大事な妹よ」
「お、ねえ、ちゃ……」
黒く染まりかけていた血管が、ほんの少しだけ、色を取り戻し始める。
だが、それは焼け石に水にも等しい変化だった。
薬の効力は、アオイの術式よりも遥かに強く、圧倒的だった。
「――くっ……!」
アオイの額に、玉のような汗が浮かぶ。
「もう少し……! もう少しだから……!」
書斎の反対側では、ハルトが既に満身創痍だった。
頬から血を流し、片膝をつきながらも、それでもアキラの前に立ち塞がり続けている。
「いいねぇ! いいよぉ! 本家の跡継ぎはそれくらいタフでないと! 俺たちの面目が立たないからさぁ!」
アキラの気持ちは、どんどんおおきくなっていってるようだった。
「……はぁ」
ハルトは小さく息を吐く。
正直、今のハルトはいつ倒れてもおかしくない。
アキラの攻撃も、もうそう何発も受けることはできない。
「やけに苦しそうだねぇ。ここでおねんねしててもいいんだよ?」
アキラの煽りに、ハルトは負けじとにやりと笑う。
「立つよ。ここで僕が倒れたら、アオイの邪魔をされる」
ハルトは、震える足に力を込め、再び光を右手に集める。
「あんただって、本当は、こんなことしたくないんだろ……! チハルちゃんに、こんな真似、したいはずないだろ……!」
その一言に、アキラの瞳から一瞬だけ、光が消えたように感じた。
「――さっきも言ったけど、科学の発展に犠牲はつきものなのさ。それに、実の娘が『人間』として強い存在になるのなら、父としてこれほど嬉しいことはないよ!」
ハルトは、無邪気に楽しそうに話すアキラの言葉を聞いて、血の滲む唇を噛む。
「そうか……」
彼は蹂躙することを喜んでいるのだろうか。
アキラの拳が、震えていた。
書斎の中に、アオイの声と、チハルの呻き声、そしてハルトとアキラの拮抗する気配が、混然一体となって渦巻いていた。
まだ、何も終わっていない。
ハルトの中でほんの僅かに、何かが揺らぎ始めていた。




