96話 悪魔化の薬
屋敷の外では、アサとヒマリが、じりじりとした思いで時間を潰していた。
「――遅くない?」
アサが、腕時計に何度目かの視線を落とす。
「ハルト君達が入ってから、もう三十分は経ってるわ」
「ええ。何かあったら連絡が来るはずですが……」
ヒマリが、スマートフォンの画面を確認する。
だが、着信もメッセージも、何も入っていなかった。
「様子、見に行きましょう」
アサが、門扉に向かって足を踏み出した瞬間だった。
「――っ!?」
見えない壁に阻まれるように、アサの体が弾かれる。
「アサ!」
ヒマリが咄嗟にその体を支えた。
門の周囲一帯に、薄く歪んだ空気の膜のようなものが、微かに揺らめいている。
「結界……! いつの間に……!」
ヒマリが剣に変わるアクセサリーへと手を伸ばしながら、鋭くその輪郭を睨みつけた。
「切り裂けそう?」
「――かなり、精度の高い結界です。これは、片手間に張れるものじゃありません」
ヒマリの声に、初めて明確な焦りが滲んだ。
※※※
「養子……だって?」
ハルトの声が、掠れて低く沈んだ。
「ああ、そうさ。アオイは栗島家の人間でも、ましてや秋津家の人間でもない。俺たちとはまた違う、別の魔法使いの家の末裔だよ」
アキラは、その事実をまるで天気の話でもするかのように、あっさりと口にした。
ハルトはアオイの方を向いた。
アオイは下を向いてわずかに背中を丸め、小刻みに震えている。
何かに怯えているようなその姿を見て、ハルトは覚悟を決めた。
「おや、いい目をしているじゃないか、ハルト君」
「……アキラ」
「だが、君の行動はどうも、ワンテンポ遅い」
「何っ!?」
アキラの右手には、いつの間にか注射器のようなものが握られていた。
彼の左腕には、未だに父親の手から逃れようとするチハルが必死にもがいていた。
(まずい!)
ハルトは魔法を発動させながら、地面を勢いよく蹴り、アキラの方に飛ぶように向かう。
「戦いにおいて判断の遅れは致命的だ。なのになぜ君は判断が遅れるのか」
アキラはそう言いながら、注射をチハルの首に差し込んだ。
「それはね、ハルト君。君が弱いからだ」
「やめろっー!」
しかしながら、既に時は遅かった。
「アァー……グ……ア……アァー!?」
アキラの腕の中で、チハルが苦しそうにもがいている。
しかしそのもがき方が何かおかしい。
チハルの身体から放出される魔力量が急激に増え始めたのだ。
空気が、ビリビリと肌を刺すように張り詰めていく。
アキラはもう用済みとばかりにチハルを乱暴に解放する。
チハルはバタリと地面めがけて倒れ、彼女自身から出る負のオーラに彼女は飲み込まれていく。
「チハルちゃん!」
ハルトが叫び、駆け寄ろうとする。
「おっと……不用意に近づかない方がいいよ。もう遅いかもしれないけど」
アキラは、口元だけで笑いながら、そう言った。
アキラの言葉に、ハルトは足を止めた。
地面に倒れたチハルを包む黒い靄が、渦を巻くように濃さを増していく。
彼女の悲鳴は、もう言葉の形すら保っていなかった。
「何をしたんだ……!」
「なに、たいしたことじゃないさ。ただの薬だよ」
アキラは、空になった注射器を軽く指先で弾きながら、悪びれる様子もなく答える。
「薬……?」
「そう。人間を、悪魔に変える薬さ」
「――っ」
ハルトは、息を呑んだ。
ノートに記されていた「科学と魔術を組み合わせた研究」という一節が、頭の中で音を立てて繋がっていく。
「チハルは俺の可愛い娘、すなわち栗島家の後継者だ。この子には、俺の跡継ぎとして相応しい強めの薬を打っておいた。その分しばらくの間副作用に苦しむことになるだろうが、何も問題はない。強い力を手に入れたこの子は、俺と共に負のエネルギーで支配された混沌の人間社会を作るのだから」
アキラは、まるで我が子の進学先でも語るかのような、朗らかな口調でそう言った。
その温度差が、かえって背筋を凍らせる。
「なっ……!?」
ハルトは言葉が出てこなかった。
「どうして……」
アキラはなんでもないことのように首を振る。
「なんで? 面白いことを聞くじゃないか。科学の発展は常に犠牲がつきものなのだよ。インフォームドコンセントなんて、ふざけた言葉が世界に広まっているが、あんなもの私のような化学者からしたら全て偽善だ。人の命は救われるかもしれないが、本来ありえた人間の可能性を止めることに繋がる。わかるかハルト君、倫理なんてものは、命が惜しい弱者共の都合のいい言葉にすぎないのだよ」
淡々とした声には、狂気の欠片すら感じさせない、静かな確信があった。
それが、余計に恐ろしかった。
「っ……」
ハルトの喉の奥から、掠れた声が漏れる。
「――チハル!」
震える声で、名前を呼んだのはアオイだった。
恐怖に竦んでいたはずのその足が、気づけば、倒れ伏す妹へと向かって踏み出している。
「アオイ、危ない!」
ハルトが制止する間もなく、アオイは黒い靄の中へと、迷いなく手を伸ばした。
「……私は、あの子に、何もしてあげられなかった。だから、せめて今だけは」
その声には、これまで聞いたことのないような、強い響きがあった。
指先が、黒い靄に触れた瞬間――
パチン、と何かが弾けるような音が、部屋に響いた。
「おっと」
アキラが、興味深そうに目を細める。
「なるほど、これは非常に面白い発見だ」




