93話 物置部屋のクローゼット
ハルトが、大学に行く準備を終えてリビングに降りていくと、父親が夕食を食べているところだった。
仕事が早く終わったのか、いつもより早い帰宅だったようだ。
「お父さん、帰ったんだ」
「おう、ハルト。ただいま」
「うん、おかえり」
父親が、箸を止めてハルトに尋ねた。
「最近、大学はどうなんだ?」
「いや、まあ、普通だよ」
ハルトは、夏休みに入る直前の期間に大学へほとんど行けていないことを、父にも母にも自分から話してはいなかった。
とはいえ、大学の方から連絡が行っているはずなので、両親はもう知っているだろう。
知った上で、あえて何も聞いてこないのだろうと、ハルトは推測していた。
「そうか。まあ、何かあったら、お父さんとお母さんを頼れよ」
父親は、どこか心配そうな顔をして言った。
「うん、わかった。ありがとう」
ハルトはそう返した。
二人の間に、少しだけ無言の時間が流れる。
次に口を開いたのは、ハルトの方だった。
「ねえ、お父さん」
「何だ?」
「栗島家のこと、どれくらい知ってる?」
「栗島家? ああ、アキラさんとか、うちに来てるアオイちゃんのことか。何か知りたいことでもあるのか?」
「うん、ちょっとね。大学の授業とかで、少し話を聞いてみたいなと思って」
「おー、そうか。確か、アキラさんは国立大の化学系の研究室の教授だったよな。あの人の話なら、いろいろ聞けることも多いだろうよ」
しかし、父親はそこで、箸を置いた。
「でもな、ハルト。一つ言っておきたいことがあるんだ」
「どうしたの、お父さん」
「いや、その……。俺の気のせいだったらいいんだけどな。あんまり、栗島家には関わらない方がいいんじゃないかって、お父さんは思うんだ」
「どうして?」
「もともと栗島家については、うちの父さんや母さん――ハルトのじいちゃんばあちゃんや、あとは……宗介おじさんからも、あんまりいい噂を聞いたことがないんだ」
「そうなの……?」
ハルトは、少し驚いた。秋津家の中でも、栗島家はどこか厄介者めいた扱いをされているらしい。
「じゃあ、どうして今も、アキラさんや栗島家と関わってるの?」
「いや、関わってるっていうか……関わらざるを得ない、っていうのが近いかな。向こうが妙なことをしないように、こっちが手綱を握ってる、っていうのが、今の状態に一番近い気がする。あんまり大っぴらにしてる話じゃないから、ハルトには早めに言っておきたかったんだ。お前が変なことに巻き込まれても嫌だからな」
「そうなんだ……」
ハルトはすでに、十分すぎるほど変なことに巻き込まれているので、父に対して少しだけ申し訳ない気持ちになった。
「まあ俺自身は、アキラさんやアオイちゃんについて特別詳しく知ってるわけじゃないんだけどな。……宗ちゃんが生きてれば、もしかしたら、何か知ってたかもしれないけど」
そう言った途端、父の表情が、ほんのわずかに翳った。何かを思い出そうとして、うまく像を結ばない――そんな顔だった。
「……いや、悪いな。そこはちょっと、俺にもわからないんだ」
父は、誤魔化すように苦笑して、箸を取り直した。
「そっか」
ハルトは、それだけ言った。
「まあ、そんなに深刻に考えなくていいから。……そうだ、ハルト。宗介や、じいちゃんばあちゃんからもらった形見……っていうか荷物が、物置部屋のクローゼットにしまってあるはずだから、一度見に行くといいよ」
「あ、そうなの? わかった、行ってみる」
ハルトは、夕食を後回しにして、物置部屋へと向かった。
ハルトは、物置部屋のクローゼットを開けた。
そこには、片付けを後回しにされたままの荷物が、雑然と積まれている。
その中に一つ、他よりも少しだけ古びた木箱が置かれていた。
「これか」
ハルトは呟きながら箱を引っ張り出し、蓋を開けた。
一番上に収められていたのは、古びたノートのようなものだった。
表紙は色褪せ、角が擦り切れている。
持ち主の名前などは書かれていない。
ハルトは、そっと表紙をめくった。
一ページ目に綴られていたのは、癖のある字で書かれた、短い覚え書きだった。
読み進めるうちに、ハルトの表情が強張っていく。
『栗島家は、単なる秋津家の家臣ではない。秋津の血を引く分家筋の一つでもある。彼らは、自分達の科学技術に絶対的な自信を持っており、近年は科学と魔術を組み合わせた研究に、力を注いでいる。しかし、その研究のためならば、彼らは犠牲を払うことを厭わない。非常に危険だ。秋津家からは、早々に切り離すべきだろう。……いや、切り離すべきなのだが、栗島家が今のような姿になった原因の一端は、秋津家の側にもある。だからこそ、無闇に縁を断つわけにはいかない。彼らが何か事を起こしたとき、その責任の一端を負うのもまた、秋津家なのだ』
そこで、文章は途切れていた。
「なんだこれ……。栗島家の尻拭いを、僕たち秋津家がやらなきゃいけないって、書いてあるってことか……?」
ハルトは、思わず声に出して呟いた。
祖父の字なのか、それとももっと前の代のものなのか、判別はつかない。
だが、ただの家系図や親戚づきあいの記録とは、明らかに違う重さが、そこにはあった。
しばらく呆然とした後、ハルトは箱の中を、さらに探ってみることにした。
ノートの下には、達筆すぎて読み取りにくい古い書状と、一枚のセピア色の写真が収められていた。
写真には、若き日の秋津家当主らしき男性と、栗島家の先代とおぼしき人物が、並んで写っていた。
「これ……魔力を感じる。なんだろう……気持ち悪い」
ぞわり、と背筋に嫌な感触が這い上がる。
温かい魔力と冷たい魔力が、混ざり合わないまま同じ場所にひしめいている――そんな感覚だった。
まるで闇鍋を覗き込んでいるような、得体の知れない気持ち悪さがある写真だった。
最近、ヒマリの特訓のおかげなのか、こういう気配に以前より敏感になっている気がする。
だとしても、この感触は明らかに異質だった。
書状の方にも、目を通してみる。
しかし、崩し字で書かれた古い文語体は、ほとんど解読できなかった。
かろうじて読み取れたのは、たった一節だけだった。
「――家の、守り、絶やすことなかれ……?」
栗島の家紋の下に、それだけが記されている。
ノートの警告と、この一節。
二つは、何か繋がっているのだろうか。
ハルトは、ノートと写真と書状を抱えたまま、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。




