92話 話しに行こう
ハルトの自室。
夕食を終えたあとの時間帯、部屋の窓には、すっかり暗くなった空が映り込んでいた。
デスクの上のノートパソコンは、開いたまま画面が暗くなっている。
編集作業をする気にもなれず、ハルトはベッドの縁に腰掛けたまま、先ほどから何度もスマートフォンを握っては、また膝の上に戻すことを繰り返していた。
(今のうちに、アオイに話しておかないと……)
土方から任務を言い渡されてから、もう三日が経つ。
日程の調整は栗島アオイと直接やってほしい――そう言われていたが、いざとなると、どう切り出せばいいのか、うまく言葉が見つからなかった。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
いつもの、感情の起伏のない声。
ドアを開けると、盆を手にしたアオイが、静かに立っていた。
「あ……ちょうどいいところに。入って」
アオイは小さく頷き、部屋に入ってくると、デスクの端にそっと湯呑みを置いた。
それから、いつものように部屋を出ていこうとする。
「あの、ちょっと待って。話したいことがあるんだ」
アオイの足が止まった。
振り返った彼女の表情は、いつも通り、感情の読めない無だった。
だが、わずかに首を傾げる仕草に、微かな警戒が滲んでいるようにも見えた。
「……何でしょうか」
「座って。長くなるかもしれないから」
ハルトが、ベッドの隣を軽く手で示す。
アオイは一瞬迷うようなそぶりを見せたあと、少し距離を空けて、ベッドの端に浅く腰掛けた。
沈黙が落ちる。
ハルトは、湯呑みに一度手を伸ばしかけて、結局触れずに、まっすぐアオイを見た。
「実は、土方さんから、任務を任されたんだ。栗島邸に――アオイの家に、調査で入らせてもらうことになった」
アオイの肩が、ほんのわずかに強張った。
「……そう、ですか」
「表向きは、ただの旧知の訪問って形にするみたい。でも、本当の目的は、アキラさんの手がかりを探すこと。日程は、アオイと相談して決めてほしいって言われてる」
アオイは、しばらく何も言わなかった。膝の上に置いた自分の手のひらを、じっと見つめている。
「……わかりました。日程については、こちらで調整します」
「うん、ありがとう。それで――」
ハルトが続けようとした言葉を、アオイの声が静かに遮った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「もちろん」
「その調査に、チハルは、関わることになりますか」
問いかける声のトーンは変わらない。だが、湯呑みに向いていた視線が、一瞬だけ揺れたのを、ハルトは見逃さなかった。
「……多分、直接は関わらないと思う。でも、家に入る以上、チハルちゃんと顔を合わせないわけにはいかないんじゃないかな」
「そうですか」
アオイは、それだけ答えて、また黙り込んだ。
長い沈黙のあと、彼女は、いつもより少しだけ低い声で、ぽつりと呟いた。
「私、あの家に、あまり帰りたくないんです」
「……え?」
「チハルのことが、心配じゃないわけじゃありません。父が姿を消してから、あの子はずっと、あの家に一人でいます。姉として、彼女に何かしてあげたいと、いつも思っています」
アオイは、そこで一度言葉を切った。
「でも、私は、あの子の力には、なれていません。父の駒として動くことに必死で、姉らしいことなんて、何一つできていない。……そんな自分が、今さらどんな顔をして、あの家に戻ればいいのか、わからないんです」
淡々とした口調の中に、初めて、隠しきれない翳りが滲んでいた。
ハルトは、しばらく何も言えなかった。
やがて、思わず身を乗り出すようにして、口を開く。
「じゃあ、ちゃんと話しに行こうよ。チハルちゃんと」
「……話す、ですか」
「うん。今回、栗島邸に行くんだったら、ちょうどいい機会だと思う。アオイが、姉らしいことができてないって思ってるなら、なおさら」
アオイは、まだ納得しきれない様子で、視線を落としたままだった。
ハルトは、そこで、ふと思いついたように付け加えた。
「あ、そうだ! チハルちゃんに、調査だってバレないように、手伝ってもらうっていうのはどうかな」
「……手伝う、とは」
「例えば、旧知の訪問ってことにするなら、家の中を案内してもらうとか、そういう名目で。捜査だって知らせずに、普通に協力してもらう感じ。そうすれば、アオイもチハルちゃんも、変に身構えずに話せるんじゃないかな」
アオイは、その言葉を、じっと吟味するように黙り込んだ。
湯呑みから立ち上る湯気が、ゆっくりと揺れて消えていく。
「……なるほど。それなら、確かに」
アオイは、ようやく顔を上げた。表情はいつもと変わらないはずなのに、その目の色が、少しだけ柔らかくなったように見えた。
「まあ、それなら、いいかもしれませんね」
「でしょ?」
ハルトが得意げに笑うと、アオイは小さく息を吐いた。呆れたような、それでいて、どこか安堵したような息だった。
「……ハルト君は、本当に、変わった人ですね」
「よく言われます」
ハルトが苦笑すると、アオイの口元にも、ほんのわずかに、緩みのようなものが浮かんだ。
湯呑みからは、まだ細く湯気が立ち上っていた。夜の静かな部屋に、それだけが、いつまでも小さく揺れ続けていた。




