91話 新しい任務
総務省本庁舎、二階。
蛍光灯の白い光が、無機質な会議机の上に等間隔の影を落としていた。
窓の外はまだ日が高いが、この階の空気はいつも少しだけ冷たい。
異界管理局の執務室では、ハルト、アサ、ヒマリの三人が、東京駅丸の内広場で起きたカイトとの戦闘の一部始終を、上官の土方に対して報告し終えたところだった。
報告書代わりのメモを挟んだファイルが、机の上に静かに置かれる。
三人とも、立ったままだった。座れとは言われていない。
土方は、腕を組んだまま、しばらく無言だった。
長い沈黙が、部屋の空気を張り詰めさせる。
「――カイトが、浅野みゆきを封印している栗島アキラの居場所を知っている、か」
ようやく口を開いた土方の声は、感情の色を意図的に消したような平坦さだった。
「はい。断言はできませんが、嘘を言っているようには見えませんでした」
ヒマリが、慎重に言葉を選びながら答える。
あの時の、カイトの目の奥にあった何かを思い出しているのか、視線がわずかに宙をさまよった。
「それで、お前達は、その申し出を断ったと」
「当然よ」
アサが、迷いのない声で即答した。
腕を組み、顎を軽く上げる姿勢には、迷いの跡すら見えない。
「誰かの臣下になって手に入れる情報なんて、信用できるわけないでしょう。それに――」
アサは、そこで一度言葉を切った。
視線が一瞬だけ床に落ち、また上がる。
「おばさんのことは、私達自身の手で何とかする。最初から、そう決めていたわ」
土方は、その言葉に小さく頷いた。
表情はほとんど動かないが、口の端がわずかに緩んだのをハルトは見逃さなかった。
「賢明な判断だ。……もっとも、それだと振り出しに戻ることになるがな」
「振り出し、ですか」
ハルトが問う。
「ああ。栗島アキラの行方は、依然として不明のままだ。異界管理局としても、独自に捜索は続けているが、正直、手掛かりらしい手掛かりは掴めていない」
土方は、机の上に積まれた資料の一つを手に取り、パラパラとめくった。
紙の擦れる音だけが、しばらく部屋に響く。
「二ヶ月前を最後に消息を絶っている、というのは以前伝えた通りだ。今では娘のチハルだけが少し大きな豪邸に暮らしている」
「……チハルさんは、何か知らないんでしょうか」
ハルトが、思わず口にする。
かつて実家に来た、あの生意気な高校生の顔が脳裏をよぎった。
それと同時に、もう一人の顔も。
「アオイ……」
ハルトが、ぽつりと呟く。
声にするつもりはなかった名前が、口からこぼれ落ちていた。
土方は、その呟きに反応したのかどうかはわからないが、そういえばと言葉を切り出した。
資料をめくる手が、一瞬だけ止まる。
「……栗島アキラの妻に関しても、彼女の実家の方から行方不明届が出ている」
「それは……」
ヒマリを含め三人の顔が一度に固くなる。
空気の温度が、目に見えて下がった気がした。
「先ほどの報告だと、栗島アキラは仲間内でマダーと呼ばれているとのことだった。そして、偶然かどうかわからないが、彼は首都圏の国立大学で、教授として教壇に立っている。もちろん、行方不明中の今は大学にも来ていないようだが、彼の教授としての籍はその大学に置いたままだ……」
土方からの言葉に、ハルトは息を呑む。
喉の奥が、急に渇いたような感覚があった。
「……正直に言おう。我々、総務省異界管理局は、警察庁の協力の元、栗島アキラを、非人道的な人体実験の疑いで捜査を、長年にわたって進めていた」
ハルトとアサはヒマリの方を向いたが、ヒマリは首を横に振るだけだ。
その仕草には、自分自身も驚きを隠せない様子が滲んでいた。
「私も知りませんでした」
「当たり前だ。そもそもこの案件は、彼が『そういう人物』である証拠がまだ掴めていない。……いや、正確にはいくつか足跡は残しているが、繋がらないから、大規模捜査に踏み切れないんだ」
「繋がらない……?」
ハルトは、疑問を問う。
「ああ。栗島アキラが残してきた犯行の証拠を全て集めて整理してみると、どうも矛盾が生じるようにできている。その矛盾が解消されるまでは、我々も警察も、捜査に踏み切れない」
しかし、土方はにやりと笑う。
それまでの張り詰めた表情からは想像もつかない、どこか愉快そうな笑みだった。
「だが、今回カイトからの証言を得たことで、別ルートでのアプローチが可能になった。わかるか、ヒマリ?」
「……もちろんです。彼が、今回の実行犯に協力をしているという証言が得られたということですよね?」
土方はフッて息を吐いた。
それが肯定の合図だと、三人にはすぐにわかった。
「……正解だ」
土方は、ハルトをジロリと見た。
その視線の強さに、ハルトは思わず背筋を伸ばす。
「秋津ハルト……お前の家に、栗島アオイが下宿しているな?」
ハルトは土方からの言葉に警戒した。
心臓が、一拍だけ大きく跳ねる。
「……はい」
「秋津ハルト、お前に一つ任務を任せたい」
「任務……ですか?」
「待ってください、土方さん! 私はともかく、ハルト君はここの人間ではないんですよ! なのに彼に単独で任務を依頼するなんて、何かあったらどうするんですか⁉」
ヒマリが、思わず一歩前に出て声を上げた。
普段の落ち着いた態度からは考えられない、切迫した口調だった。
「今更だろ、ヒマリ。安心しろ。お前ら二人にも、秋津ハルトとは違う任務で、彼に同行をさせてやる」
土方は、アサとヒマリを順番に見た。
「浅野家の令嬢には、栗島邸の護衛。藤宮ヒマリは、浅野家の令嬢と秋津ハルトの任務の監督業務だ。但し、栗島邸に実際に入るのは、秋津ハルトと栗島家の人間のみにしろ。浅野家の令嬢と、ヒマリは何かあった時のために外で待機だ」
「どうしてそんな回りくどいことをするの? 普通にこの三人にアオイちゃんを加えて栗島邸に進入した方がいいんじゃないかしら?」
アサが、腑に落ちない様子で問い詰める。
土方は窓の外に目を向けた。
その横顔には、言葉にしていない何かを噛み殺しているような、微かな翳りがあった。
「……いや、今回に限っては、それは多分よい結果を生まない気がする」
土方は再び三人の目を見た。
今度は、有無を言わせない強さがそこにあった。
「とにかく、上官である俺からの命令は絶対だ。日程の調整は栗島アオイとやってほしいが、できれば今週1週間以内に潜入調査に入ってくれ」
土方は、机に広げていた資料を静かに閉じた。
その音が、話の区切りを告げるように部屋に響く。
「秋津ハルト、浅野家の令嬢、そして、ヒマリ。三人には、栗島邸への接触を任せたい。表向きは、ただの旧知の訪問でいい。無理はするな」
「わかりました」
ハルトが頷く。隣で、アサも小さく頷いた。
「浅野家の問題、栗島家の問題、そして秋津家の問題。根はおそらく、全て同じところに繋がっている。……この一件を終わらせることが、次の局面への扉になる」
窓の外では、夕暮れの光が、遠くの街まで赤く染め始めていた。
三人は、互いに顔を見合わせ、小さく頷き合った。




