五章閑話
魔界。
常に赤黒い月が浮かび、地表から絶えず瘴気が立ち上るこの世界の外れに、岩肌をそのままくり抜いて作られた陣営がある。
かつては誰にも見向きもされなかった、辺境の廃坑跡。
今では入り口に篝火が並び、下級悪魔たちが列をなして警備に当たっていた。
こここそがカイトの秘密裏の拠点である。
人間界から戻ってきたカイトが篝火の間を歩いていくと、すれ違う配下たちが次々に頭を垂れる。
「お帰りなさいませ、カイト様」
「首尾は?」
「まあまあだ。今日のところはな」
気だるげに片手で応え、カイトはそのまま奥の坑道へと足を進めた。
石を削っただけの粗末な広間に、三つの寝台が並んでいる。
その一つに、包帯だらけの姿で横たわっていたのは、『嫉妬』の悪魔――エンヴィーだった。
「……親玉」
エンヴィーは、こちらに気づくなり顔をしかめた。
だが、その声に以前ほどの棘はない。
「調子はどうだ」
「最悪だよ。何がどうなってんのか、こっちが聞きてぇくらいだ」
エンヴィーは寝台の上で軽く身を起こしながら、忌々しげに舌打ちした。
「気づいたら、こんな有様だ。誰にやられたのかも、いつやられたのかも、覚えちゃいねぇ。気がついたら魔力が空っぽで、体だけがボロボロで……ふざけた話だぜ」
カイトは、その様子をしばし眺めた。
(――そういえば、こいつを最初に拾ったのも、俺だったな)
昔、まだ何も持たなかった頃のエンヴィーを配下に加えたのは、他でもないカイト自身だった。
その後、ハルトとの一戦で無様に敗れ、破門を言い渡したのも、また自分だ。
因縁と呼ぶには些細すぎる、ただの巡り合わせ。
だが、こうしてまた同じ屋根の下に転がっているのだから、世の中はわからないものだった。
「――何じろじろ見てんだよ」
「別に。存外、間抜けな面をしてるなと思っただけだ」
「あぁ?」
エンヴィーが牙を剥くが、カイトはそれを軽く受け流し、隣の寝台へと視線を移した。
そこでは、マモンが優雅に脚を組んで寝そべっている。
「おやおや、カイト様。わざわざ様子を見に来てくださるとは、恐悦至極」
「口だけは元気そうだな」
「これでも治療は順調でして。カイト様の配下の方々の腕は、実に見事なものです。明日にでも動けそうですよ」
「原因に、心当たりは」
マモンは、そこで初めてわずかに笑みを崩した。
「――さて。何しろ、気がついたら魔力を根こそぎ持っていかれたような有様でしたので。誰の仕業かも、いつの出来事かも、とんと。恐ろしいことに、記憶がすっぽり抜け落ちているのですよ」
軽薄な物言いの奥に、わずかな苛立ちが滲んでいた。
カイトは小さく鼻を鳴らした。
そして最後に、部屋の隅で膝を抱えるように座り込んでいた、ミニラストへと目を向けた。
「――お前は、どうだ」
ミニラストは、しばらく答えなかった。
傷はもう塞がっているようだったが、その瞳には、まだどこか晴れない陰りが残っている。
「……分からない。力が、根こそぎ抜けていく感覚だけは覚えてる。でも、何にやられたのかも、いつだったのかも――何一つ、思い出せない」
「気味が悪いか」
「悔しいのよ」
ミニラストは顔を上げ、真っ直ぐにカイトを見た。
「何にやられたのかも分からないまま、こんなに弱ってる自分が。次に何が来ても、今度こそ立っていられるように、鍛え直す」
その言葉に、カイトはわずかに口の端を上げた。
「――いい目だ」
三人の様子を一通り確かめると、カイトは踵を返し、広間の外へ出た。
夜とも昼ともつかない、赤黒い空を見上げる。
(三人とも、思ったより回復が早いな。あと十日もあれば、戦力として使えそうだ)
(――にしても、な)
三人とも一様に「気づいたら魔力が根こそぎ持っていかれていた」と口を揃えていたことが、カイトの脳裏にわずかな引っかかりを残していた。
敵の仕業にしては、あまりに痕跡がなさすぎる。
だが、今はそれを詮索するよりも、使える駒として仕上げる方が先だった。
先刻、人間界で交わした申し出――ハルトたちが自分の下につくかどうかなど、カイトにとってはさして重要な問題ではなかった。
あの三人の"筋の通し方"は、確かに気に入った。
だが、それとこれとは話が別だ。
目的は変わらない。
ファーベルを倒し、混沌を消し去り、魔界の頂点に立つ。
そのためには、たとえ人間の小僧どもの手を借りずとも、自前の駒を揃えるまでのことだ。
「――おい」
振り返ると、控えていた配下の一人が、素早く跪いた。
「はっ」
「マモン、エンヴィー、ミニラスト。三人とも、思ったより持ち直しが早い。これなら、予定を前倒しできるな」
「……と、申しますと」
「決まってるだろ」
カイトは、金色の瞳を細めた。
その奥に、これまでとは違う、静かな熱が宿っていた。
「俺たちの天下を取る戦いの準備を、始めるぞ」
配下は、深く頭を下げた。
「――かしこまりました」
赤黒い月の下、廃坑の陣営に、静かなざわめきが広がっていく。
カイトは、その光景を一瞥もせず、ただ遠く――人間界の空がある方角を、しばらくの間、見つめ続けていた。




