90話 臣下
「――で、だ」
カイトは、それまでの重い空気を振り払うように、軽い調子で言葉を継いだ。
「貴様らに一つ、提案がある」
「提案?」
ハルトが警戒しながら聞き返す。カイトは、腕輪をいじりながら、口の端を吊り上げた。
「俺様の臣下にならないか?」
あまりにあっさりとした物言いに、三人は一瞬、反応が遅れた。
「――は?」
アサが真っ先に声を上げる。
「臣下って、あなたね……」
「俺様がふざけてるとでも? これは本気の話だ」
カイトは、真剣な顔のまま続けた。
「お前らほどの力と頭脳を、このまま放っておくのは惜しい。もし俺様の下につくなら、貴様らに土産を用意してやる」
「土産?」
「浅野みゆきにかけられた封印。あれを解いてやってもよいぞ?」
その一言に、三人の表情が明らかに硬くなった。
「知ってるだろ。あの封印を解くには、術者本人の手が必要だ。栗島アキラ、ってな」
カイトは、こともなげに言った。
「あの男の居場所を知ってる奴は、今この世界にほとんどいない。だが俺様は知ってる」
ハルトは、思わず息を呑んだ。土方から告げられたばかりの、あの最優先事項――栗島アキラの捜索。それを、目の前の男は、いとも簡単に「知っている」と口にしたのだ。
「本当に、知ってるの……?」
アサの声が、わずかに震えていた。カイトは、それに対してただ、片方の眉を軽く上げただけだった。
「嘘だと思うなら、それでもいい。だがな、娘。俺様の臣下になれば、その情報は必ずお前に渡す。元人間とはいえ、今の俺様は悪魔だ。約束は必ず守ろう」
沈黙が落ちた。
アサは、拳を強く握りしめている。母――浅野おとはのことも、みゆきのことも、彼女にとってはずっと抱えてきた重荷だった。その解決の糸口が、目の前に差し出されている。
ハルトは、隣に立つアサの横顔を見た。何か言おうとして、しかし言葉が出てこなかった。
代わりに口を開いたのは、ヒマリだった。
「――カイトさん」
その声は、思いのほか落ち着いていた。
「ご提案、ありがたく思います。私達の力を認めてくださったことも、みゆきさんのことを気にかけてくださったことも」
ヒマリは、真っ直ぐにカイトを見据えた。
「その上で、お断りします」
「――ヒマリ先輩」
ハルトが驚いたようにヒマリを見る。だが、ヒマリの表情に迷いはなかった。
「アサ」
「……」
アサは、しばらく黙っていた。拳は、まだ固く握られたままだった。
だが、やがて、ゆっくりとそれを解く。
「……そうね。うん! 私も、同じ」
アサは、カイトへとまっすぐ視線を向けた。
「おばさんのことは、私達自身の手で何とかする。誰かの臣下になって手に入れるようなものじゃないわ」
「僕らには、僕らの考えがあります」
ハルトも、二人に続いて言葉を重ねた。
「だから――結構です」
三人の答えは、揃っていた。
カイトは、しばらくの間、無言だった。金色の瞳が、値踏みするように三人を見つめている。
やがて、彼は小さく――しかし、はっきりと笑った。
「……面白い」
拍子抜けするほど、あっさりとした反応だった。
「我が臣下に相応しい者はこうでなくてならぬ。うむ、気に入った。損得より、自分達の我を通す者はポイントが高いぞ?」
カイトは腕を組み、記念碑の台座から立ち上がった。
「まあいい。今日のところは、それで十分だ」
「今日のところは、って……」
ハルトが問い返すと、カイトは肩をすくめた。
「いつでも俺様を呼ぶがいい。貴様らが俺の軍門に下るのなら、王として歓迎してやろう」
そう言うと、カイトは踵を返し、灰色に沈んだ広場をゆっくりと歩き出した。
「一つだけ、忠告しておいてやる」
背を向けたまま、カイトは言葉を続けた。
「ファーベルは、そう遠くないうちに動く。お前らが今のままの覚悟で立ち向かえるかどうかは知らないが――その力は、己の筋を通すのに使うがよい」
言い終えると同時に、カイトが軽く指を鳴らした。
その瞬間、色を失っていた広場に、音が――喧騒が、堰を切ったように戻ってくる。噴水の代わりに設けられた石造りのモニュメントの周りを、何事もなかったかのように行き交う人々。カメラを構える観光客の声。遠くで鳴る車のクラクション。
灰色だった世界に、昼下がりの色彩が一気に流れ込んだ。
固有空間が解けたその一瞬、カイトの姿もまた、雑踏の中へと溶けるように消えていった。
「……行っちゃった」
ハルトが、呆然と呟く。周囲では、何事もなかったかのように、スーツ姿のビジネスマンや観光客たちが行き交っている。
ほんの数十秒前まで、ここで死闘が繰り広げられていたことを知る者は、誰一人としていない。
「本当に、何を考えてるのか分からない奴ね」
アサが、大きく息を吐きながら言った。だが、その声には、先ほどまでの張り詰めた響きはもうなかった。
三人は、しばらくの間、雑踏の真ん中に立ち尽くしたまま、東京駅の赤煉瓦の駅舎を、ただ見つめていた。




