10話 ルール
先ほど、笑顔が眩しいヒマリ先輩と別れてから数分後。
アサの底知れぬ不機嫌をなだめるため、二人は一時間目の授業を履修していないのをいいことに、朝から開いている大学の学生食堂へとやってきていた。
朝の学食は学生の姿もまばらで、静かな空間に食器の触れ合う音だけが響いている。
当然のことながら、今回の朝食代は全てハルトの奢りである。
ハルトは「トホホ……」と心の中で涙を流し、肩を落としながら自分用のメニューを受け取った。
お盆の上に乗っているのは、学食の定番であるカレー定食よりもさらに安い裏技的メニュー――『白飯とみそ汁のセット』だ。
対する目の前のアサ様はといえば、この学食で最も高価で豪華なメニューである『特製ステーキ丼』を、涼しい顔で注文なされていた。
「さて。あいつとの関わりを、出会いから一文字残らず全て話してもらおうかしら?」
ジューシーな肉の焼ける匂いを漂わせながら、アサがジロリとハルトを睨みつける。
「え、えっと……」
「何? まさか、私に言えないようなやましいことでもあるのかしら?」
「いえそんな! 滅相もございません! もちろん全てお話しさせていただきます!」
フォークの先を向けられ、ハルトは首を横に激しく振りながら、あの日ヒマリ先輩と出会ってから今日に至るまでの事の顛末を、一息に説明した。
しかし、話を全て聞き終わった後も、アサの険しい視線はハルトを射抜いたままだった。
「ハルトくん。あの時のチラシ、まだ持ってるかしら?」
「あ、ああ。持ってるぞ」
不意にそんなことを言われ、ハルトは急いでリュックを引き寄せた。中に入っていたクリアファイルから、あの日ヒマリ先輩にもらった一枚のチラシを取り出し、テーブルの上に置く。
「あの、このチラシがどうかしたのか? どこからどう見ても、ただの『考古学研究会』の地味な新入生歓迎チラシにしか見えないんだけど……」
「……これ、魔法でカモフラージュされてるわ」
ハルトが「え?」と聞き返すより早く、アサはステーキ丼から手を放し、テーブルの上のチラシに向かってそっと手をかざした。
彼女の手のひらから、微かな、しかしはっきりとした魔力が放たれる。
「これは……?」
ハルトが再びチラシに目を落とすと、そこには信じられない光景が広がっていた。
先程までデカデカと印字されていた『考古学研究会』という文字が、まるで水に溶けるインクのようにグニャリと歪み、跡形もなく消え去ったのだ。
代わりに浮かび上がってきたのは、全く別の、物々しい二つのワードだった。
――『総務省異界管理局』
――『専属エクソシスト募集』
「エクソシストの勧誘よ。あなたが尻尾を振ってデレデレ話していたあの笑顔が眩しい先輩は、あなたを考古学なんかじゃなく、エクソシストに勧誘していたの」
「ちょ、ちょっと待って! どういうこと!? 全然意味がわからない。エクソシストって、あの、悪魔を退治する映画とかに出てくる人達のことだよね? この世界に悪魔がいて、ヒマリ先輩はそれを倒す人ってことなの? しかも、総務省って……国の機関!?」
パニックに陥り、思わず身を乗り出すハルト。アサは小さくため息をつき、みそ汁に口をつけた。
「はぁ。わかったわ。場所が場所だし、今は簡潔に説明してあげる。これからの説明で意味が分からないことがあっても、とりあえず飲み込んで。おいおい理解してちょうだい」
「わ、わかった……」
ハルトが唾を飲み込むと、アサはフォークでステーキを一切れ刺し、真剣な顔つきになった。
「まず、『パラレルワールド』という言葉を知ってるかしら?」
「並行世界のこと?」
「そうよ。実は、この世界には、パラレルワールドから次元の壁を越えてやってきた生物が、いくつか存在しているの」
「な、なるほど……?」
「早速理解できてない顔をしてるけど、先に進むわ。で、このパラレルワールドからやってきた未知の生物を、もし一般の人間が見つけたら、どうすると思う?」
「他の世界からやってきた生き物を人間が見つけたら……? うーん、歴史的に見て、奇異の目で見られれば御の字で、場合によっては捕獲されたり、迫害されたりしそうなイメージだね」
「そうね。だから実際に、パラレルワールドからやってくる生物は、そういう人間の性質を何らかのかたちで事前に知っているから、魔法や技術を使ってうまく社会に溶け込み、身を隠しているの」
「へぇ……」
「で、身を隠して地球に迷惑をかけないで、素直にひっそり生活してくれるんだったら全然いいんだけど。中には、地球上の存在に危害を加えようとする凶暴な個体や、ルールを破る無法者がいるのよ。そいつらを秘密裏に倒して周っているのが、ヒマリのような『エクソシスト』って呼ばれる存在なの」
「じゃ、じゃあ、さっきのチラシに書いてあった『総務省異界管理局』っていうのは……」
「あれは、パラレルワールドから訪れた生物が、地球上で問題なく生活を送れるように支援したり、逆に危険分子を監視・排除したりする公的機関よ。日本だけじゃなく、大体世界中どの国にも似たような裏の組織が設けられてるわ」
「ま、待ってくれ。僕は、そんなパラレルワールドだとか、エクソシストだとか、異界管理局だとか……そんな話、ニュースやネットで一度も聞いたことないぞ。いくらなんでも、それだけの規模のことが完全に隠し通せるわけが……」
言いかけて、ハルトはハッとした。
目の前にいる少女が、当たり前のように『魔法』を使う存在であることを思い出したからだ。
「それはそうよ。隠し通せているのには、明確な理由があるわ」
アサはステーキをパクリと口に運び、もぐもぐと咀嚼してから続けた。
「現代では、『魔法は存在しない』と人間に認識させる大規模な認識阻害魔法を、さっきの公的機関を通じて、全ての伝達機関――テレビ、ラジオ、新聞、スマホ、タブレットのようなネットワークに乗せて常に流しているからよ。だから、地球上の一般人の間では、魔法や異世界の存在は『絶対に存在しない架空のもの』という常識に書き換えられているの」
「じゃあもし、さっき言ってたパラレルワールドから訪れた危険な生物が、街のど真ん中で暴れたら……?」
「同じ手段で隠蔽よ。情報伝達機関に魔力を載せる。記憶を操作して、大抵は『ガス爆発』とか『大規模な交通事故』とか、他のもっともらしい理由にすり替えられて報じられているわね」
「そんな馬鹿な……」
ハルトは自分の白飯とみそ汁を見つめたまま、絶句した。
自分が今まで信じてきた世界の常識が、足元からガラガラと崩れ去っていくような感覚。
しかし、混乱する頭の中で、一つの巨大な疑問が急浮上してきた。
ハルトは勢いよく顔を上げ、ステーキ丼を堪能している目の前の少女を指差した。
「……ちょっと待てよ。じゃあ、なんでアサはそんな国家レベルの最高機密に詳しいんだ? それに、アサが普段使ってる『魔法』って……」
ハルトの問いかけに、アサはフォークを止め、ピタリと動きを止めた。
「まさか、アサも……パラレルワールドから来た生物なのか……?」
静まり返る学食。
アサは少しの間、真剣な顔をしたハルトを見つめ返していたが、やがて呆れたように深々とため息を吐いた。
「……はぁ。一応、これも説明しておくかしら」
アサはフォークをカチャリと置き、姿勢を正してハルトの目をまっすぐに見据えた。
「もともと総務省異界管理局ができる前……それこそ、日本の高度経済成長期より前の時代ではね。私の家、『浅野家』を含む、いくつかの強い魔力を持つ家系が、そのエクソシストのような役割を果たしていたの」
「浅野家……って、アサの家が、昔からそのパラレルワールドの生物に対処してたってこと?」
「ええ、そういうこと。勘違いしないでほしいんだけど、地球の生命体だって、多かれ少なかれ『魔力』と呼ばれるエネルギーを持っているのよ。その中でも、魔力の総量が特に多かった家系が、古くから『魔法使い』を名乗って裏からこの世界を守っていたってわけ」
アサの言葉に、ハルトは目を丸くした。
つまり、彼女は異世界からの訪問者などではなく、正真正銘、この地球で代々受け継がれてきた魔法使いの末裔だということだ。
ハルトは自分の白飯とみそ汁を見つめたまま、完全に言葉を失った。
非日常は、異世界などという遠い場所からやってきたわけではない。
ずっと昔から、この世界の裏側に当たり前のように存在し、今はハルトのすぐ隣に座ってステーキ丼を食べていたのだ。
「さ、最後に一ついいか?」
ハルトは冷めかけたみそ汁を飲み干し、おずおずと尋ねた。
「何かしら?」
アサは特製ステーキ丼の最後の一切れをフォークで刺しながら、小首を傾げる。
「ヒマリ先輩は実はエクソシストで、僕をエクソシストに勧誘しようとしていたってことだよね? それって……」
「ハルトくんに『魔力』があるんじゃないか? ってことかしら」
ハルトが言い淀んだ淡い期待――あるいは不安――を、アサはあっさりと先読みして口にした。
「それなら、心配しなくていいわよ」
「どうして?」
「このチラシはね、ある一定以上の魔力を持つ人間が触れると、自動的にカモフラージュの魔法を貫通して、本当の『エクソシスト勧誘チラシ』に見えるように細工されているの」
「……チラシ自体を使って、魔力を持つ人間かどうかを選別してるってこと?」
「そうね。で、本物のチラシが見えた、つまり魔力を実際に持っている人間だけが、その場でエクソシストに勧誘されるって仕組みなわけ」
アサはフォークを口に運び、満足そうに咀嚼してから、ハルトに向けて容赦のない事実を突きつけた。
「で、あの日、まんまと『考古学研究会』の偽の勧誘チラシに見えてしまったハルトくんには、魔力なんて特別なものは一ミリもないから、安心してもらって構わないわ」
「そ、そっか……」
自分はどこまでいっても一般人だったのだ。
安堵する一方で、心のどこかでほんの少しだけがっかりした自分を自覚しつつ、ハルトはハッとした。
一つの大きな矛盾が立ち上がってきたからだ。
「じゃ、じゃあ! なんで、ヒマリ先輩はその後も昼休みの度に僕のところにやってくるんだ!? チラシを見た時点で魔力がないってわかったんなら、エクソシストの勧誘としては完全に用済みのはずじゃないか!」
身を乗り出して抗議するハルト。
しかし、アサは空になったステーキ丼の器から視線を外し、窓の外のキャンパスを冷めた目で見つめた。
「さぁね」
少しだけ棘のある声だった。
「あいつが何を考えているのか……私には何もわからないわ」
突き放すようなアサの言葉の裏には、正体不明のヒマリに対する強い警戒心がひしひしと滲んでいた。




