88話 王との戦い
最初に動いたのは、ヒマリだった。
「――退かない!」
懐から取り出した護符が、宙で幾重にも重なり合い、淡い光の壁を形成する。カイトの拳がそれに叩き込まれると同時に、灰色に沈んだ丸の内広場に、石畳の敷石が浮き上がるほどの衝撃波が走った。
「ぐ……っ!」
結界は罅割れながらも、かろうじて一撃を受け流す。だがヒマリの足元は、衝撃だけで石畳ごと深くえぐれていた。
「まだまだ甘いぞ、娘!」
カイトの声が、駅舎の赤煉瓦の壁に反響する。姿はすでにヒマリの真横――踏み込みの速さは、目で追うことすら許さない。
「先輩から離れろ!」
叫びながら、ハルトが割り込む。
右手に集めた光が、これまでのどの魔法よりも密度を増していた。
あの日、アサを守るために目覚めた力――それが今、確かにハルトの制御下にある。
放たれた光弾が、カイトの脇腹を捉える。
「ほう」
カイトは初めて、わずかに体勢を崩した。
だが、それも一瞬だった。
「悪くない威力だ。だが、まだ――」
言い終わる前に、カイトの姿がまた掻き消える。
次の瞬間、彼はもうハルトの目の前にいた。
振り上げられた拳。避ける時間はない。
「――そこまでよ」
割り込んだのは、アサだった。
彼女が右手を薙いだ瞬間、空間そのものが小さく軋んだ。
確率が歪む。
カイトの拳は、ハルトの頬をかすめる寸前で、わずかに――本当にわずかに、軌道を逸れた。
「なっ……!?」
カイトが、初めて驚いたような声を上げる。
「今の、避けたんじゃない。当たらなかったのよ」
アサは息を切らしながらも、口元にだけ小さな笑みを浮かべた。
「確率を歪める。私の魔法は、そういうものだから」
「……ほお。面白いではないか」
カイトは距離を取り、三人を見渡した。
金色の瞳の奥に、明らかな愉悦の色が浮かんでいる。
「なら、これはどうだ」
腕輪が、今までで一番強く輝いた。
広場全体の空気が唸りを上げ、近くにあった記念碑の台座が、衝撃だけで軋みながら浮き上がる。
「アサ、確率だけじゃ受けきれない! 先輩、結界を――」
「言われなくても!」
ヒマリが叫びながら、両手に護符を束ねて構える。
刻まれた術式が、光の粒子となって空中に幾何学の模様を描き始めた。
「三人で――!」
誰からともなく、その言葉が重なった。
ハルトが前に出て光の盾を展開し、その内側にアサの歪みの魔法が重なり、さらにヒマリの結界がそれを補強する。
三種の異なる力が、初めて一つの形として噛み合った瞬間だった。
カイトの一撃が、その三重の防御に叩き込まれる。
轟音。
土煙――否、砕けた石畳の破片と光の粒子が周囲に舞い散り、近くの街灯が根元から折れて倒れ込んだ。
「――っ、はぁ……っ」
ハルトは膝をつきかけながらも、なんとか踏みとどまった。
両隣で、アサとヒマリも荒い呼吸を繰り返している。
だが、三人とも、まだ立っていた。
土煙の向こうから、ゆっくりとカイトが姿を現す。
その表情に、先ほどまでの嘲るような余裕は――なかった。
代わりにあったのは、値踏みするような、それでいてどこか満足げな、静かな笑みだった。
「――ふむ」
カイトは、腕輪の輝きをゆっくりと収めながら、そう呟いた。
「いい太刀を持つ者達だ」
その一言に、三人は思わず顔を見合わせた。
「俺様の目に狂いはなかったようだな」
言うと同時に、カイトは軽く手を振った。
まるでそれで全てが終わったとでも言うように、周囲に立ち込めていた威圧的な魔力の気配が、嘘のようにかき消えていく。
「……え?」
ハルトが、構えを解けないまま声を漏らした。
「終わり、ですか……?」
「ああ、終わりだ。これ以上は、時間の無駄というものだろう」
カイトはあくびを一つして、近くにあった記念碑の台座に、軽く腰を下ろした。
まるで、たった今まで殺し合いをしていたことなど忘れたかのような、あまりに気の抜けた仕草だった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! こっちは本気で――」
アサが声を荒げるが、カイトはひらひらと手を振ってそれを遮った。
「安心しろ、遊びはこれで終いだ。だが、貴様らをここに呼んだ本題は、まだ済んでおらぬ」
「……本題?」
ヒマリが、警戒を解かないまま問い返す。
カイトは、金色の瞳をわずかに細めた。
「そうだ。むしろ、ここからが本番――貴様らに、聞いてもらいたい話がある」
その声には、先ほどまでの好戦的な響きはどこにもなかった。
代わりに滲んでいたのは、どこか低く、静かな――何かを覚悟したような色だった。
三人は、まだ整わない息のまま、互いに顔を見合わせた。
戦いは、あまりにも唐突に幕を下ろした。
だが目の前の"金色の魔王"が、まだこの場を去るつもりがないことだけは、はっきりと分かった。




