84話 鬼怒川温泉怪事件
この日は総務省異界管理局の仕事はなく、ハルトとアサはフリーだった。
しかし、ヒマリは別件で任務が入ってしまい、残念ながら空いてない。
そのため、この日はハルトとアサの二人だけで、旅行に行くことにした。
「うえーん! ハルト君、アサ! 私だけ置いていくなんてひどいです!」
ヒマリは冗談めかしてウソ泣きをしてみせると、ハルトとアサは苦笑してしまった。
「ヒマリ先輩、ちゃんとお土産は買ってきますので。そう! 確か、鬼怒川温泉といえばプリン」
ハルトは、何か閃いたポーズのように、ピンと人差し指を上に立てた。
「……知ってますよ。日光プリンですよね」
ヒマリは、ジトっとハルトを睨んだ。
「もうヒマリ! そんなにいじけないでよ。また一緒に行けばいいじゃない!」
腰に手を当てて頬を膨らませているアサに対して、ヒマリは一言。
「……日光プリン、楽しみにしてますから」
「……って言ってましたね、ヒマリ先輩」
「あいつのことは気にしなくていいのよ! まったく、ヒマリらしくないわね」
そう言ってホーム上のベンチに座って談笑する二人は、ヒマリが気を使ってくれたのかもしれないと、なんとなく感づいてはいた。
というわけで今回やってきたのは、朝8時過ぎの浅草駅。
「なんだかアサと二人で浅草駅に来るのは久しぶりのような気がする……」
「……結構最近だったような気がするけど、確かに初めて会った直後以来かもしれないわね」
朝は呆れながらため息をつきながら言葉を返した。
実際今回二人で浅草駅の東武線乗り場を訪れるのは、区間急行で館林に行く動画を撮り、そのあとテレビと唐揚げで子供の引きこもりを解決した事件以来、約4か月ぶりであった。
「前回来た時は、隅田川沿いの桜の木が青々としていたのに、今じゃ少しづつオレンジ色に変色してきてるなんて……」
「……まあ、しょうがないよ。それに、こういう日こそ温泉に行ってゆっくりするのがいいと思うんだ」
というわけで。今回乗車する電車は、浅草駅8時30分発の特急リバティきぬ109号の鬼怒川温泉行きである。
行き先が示す通り、今回のハルトとアサの目的地は鬼怒川温泉だ。
特急リバティきぬ109号に使われる東武500系は、2017年に登場した東武鉄道の新型特急車両であり、新しい時代の東武を担うフラッグシップトレインでもある。
この特急リバティは、もともと走っていた浅草から日光・鬼怒川方面を結ぶ快速電車の代替として設定された新しい特急列車であり、快速列車が走っていた時代と比べて車内の快適性は向上している。
車内の各座席には充電コードなどが整備されており、目的地まで快適な空間が維持されるようになっている。
まさに、一時の休暇にぴったりの特急車両なのである。
「この特急もこの間乗った西武線みたいに、車内が新しい感じがするけど、新型車両なの?」
アサの疑問に対して、ハルトは、「その通り」と元気に応える。
「この東武500系は東武鉄道の新型の特急車両で、浅草から日光や鬼怒川温泉だけじゃなくて、その先の会津地方や、あとは群馬県の館林や太田、伊勢崎の方にも乗り入れてるんだよ」
2人を乗せた特急リバティきぬ109号は、8時30分に浅草駅を出発し、秋風が少しずつ吹き始めた隅田川を渡っていく。
東京スカイツリー駅を出ると、北千住、春日部、栃木と停車駅が少なく、爆速で関東平野を北上していく。
途中の新越谷駅を過ぎたあたりから、徐々に風景に田園が増えてきて、最終的に、直通先の地下鉄や東急線の車両も折り返す南栗橋の車庫を横目に過ぎたあたりから、一気に風景はのどかなものとなった。
本日の天気は快晴であり、途中で渡った利根川の水面が綺麗に輝いていた。
これもアサの幸せを運ぶ魔法の影響なのかもしれない。
今ならそんな気がするとハルトは感じた。
途中の栃木駅を過ぎたあたりから徐々に山合いの区間に入っていき、やがて列車は10時12分に下今市駅に到着した。
下今市駅を発車すると、ここから東武鬼怒川線に入り、鬼怒川線内は今までの快適なくらいの高速運転が嘘のように、のんびりとしたスピードで走っていく。
しかしながら、小さな駅はもちろん通過していき、10時36分に定刻通り鬼怒川温泉駅に到着した。
鬼怒川温泉の駅を出たハルトとアサは、駅前の足湯に目をつけた。
アサは早速足湯に駆け寄り、靴を脱いで湯に浸かる。
ハルトもそれに続いた。
今日は本当に任務とは関係なく、二人がのんびりするだけの日である。
足湯に浸かった後、二人はホテルへ移動し、荷物を置いてから鬼怒川温泉周辺の散策をすることにした。
鬼怒川温泉周辺には、バブル期に建てられ、廃業となった多くの廃旅館がそのまま残されており、かつてのバブル時代のノスタルジーを感じることができた。
「こんなに古くて無人の建物がいっぱいで、鬼怒川温泉ってなんだか寂れているように感じるわ」
「いやいや、そんなことはないよ。鬼怒川温泉だって日光が近いし、ここから会津方面への通り道だから、観光客、特に外国人観光客もたくさん訪れるんだ」
ハルトが返した通り、実際、鬼怒川温泉の駅周辺は、平日の日中にもかかわらず観光客がちらほら見られ、それなりの賑わいを感じることができた。
ハルトとアサは鬼怒川温泉の駅でお昼ご飯を食べようと駅に戻ろうとしたその時、廃墟の中の一つで怪しい影が動くのを感じた。
「なんだ?」
「ちょっと行ってみる」
アサは無表情で続ける。
「悪魔だったとしたら、私たちで確認する必要があるわ」
ハルトとアサは廃墟の中に侵入し、悪魔の痕跡を探し出した。
不法侵入に関しては、後でヒマリの上官である土方に報告すれば問題ないだろう。
ハルトとアサは、崩れかけた玄関の格子戸をくぐり、廃墟の中へと足を踏み入れた。
かつて宴会場だったと思しき広間には、色褪せた畳と、崩れ落ちた欄間だけが往時の面影を残していた。
埃っぽい空気の中に、微かだが確かに、悪寒に似た違和感が漂っている。
「……この奥ね」
アサが低く呟き、廊下の奥に向かって歩き出す。
ハルトも黙って後に続いた。
不法侵入に関しては、後でヒマリの上官である土方に報告すれば、なんとかなるだろう。
今はそれよりも、優先すべきことがある。
朽ちた宴会場の中央、めくれ上がった畳の上に、それはうずくまっていた。
人の形をなぞってはいるが、輪郭はひどく歪んでいて、まるで粘土を無理やり人型に押し込んだような、不快な質感をしている。
「――やっぱり、いたわね」
アサの声のトーンが、いつもの明るさから一段低く落ちた。彼女が右手を掲げると、指先に陽炎のような光の粒子が集まり始める。
悪魔が咆哮を上げた。
低く、獣じみた声だった。
それは畳を蹴り、驚くほどの速さでアサへと突進する。
「アサ、危ない――!」
ハルトの叫びは、悪魔の動きに追いつかなかった。
アサは咄嗟に確率を歪め、直撃こそ免れたものの、伸びてきた腕の一撃が肩口を掠め、彼女の身体は壁際まで吹き飛ばされた。
「――っ!」
崩れ落ちた木材の中に倒れ込んだアサは、すぐには立ち上がれなかった。
悪魔はその隙を逃さず、とどめとばかりに巨大な爪を振り上げる。
(間に合え……!)
考えるより先に、ハルトの足が動いていた。
ヒマリに叩き込まれた特訓の日々が、この一瞬のために全身に染み込んでいたのかもしれない。
ハルトはアサの前に滑り込むようにして立ちはだかり、彼女を庇うように両腕を広げた。
爪が振り下ろされる。
避ける時間はなかった。
鈍い衝撃と、焼けるような痛みが、ハルトの左腕から肩にかけて走った。
視界の端で、自分の血が畳に飛び散るのが、やけにゆっくりと見えた気がした。
「ハルト君……!」
アサの悲鳴が、遠くから聞こえるようだった。
だが、不思議と恐怖はなかった。ただ一つ、頭の中にあったのは――
(アサだけは、絶対に。)
その想いが、胸の奥で何かに火をつけた。
これまでヒマリから教わってきた魔法の型が、まるで意味をなさないほど自然に、ハルトの内側から溢れ出してくる。
「ぐ……ぅ、まだ、だ……!」
痛みに歪んだ声で叫びながら、ハルトは傷だらけの右手を悪魔に向けて突き出した。
掌から放たれた光は、これまで練習で見せてきたどの魔法よりも鋭く、そして強かった。
まるで、自分の中に眠っていた何かが、たった今、目を覚ましたかのように。
悪魔は苦悶の声を上げ、大きく仰け反った。
その隙を逃さず、ハルトはもう一度、渾身の力で反撃の光を叩き込む。
今度こそ、悪魔は黒い靄のような残滓を残して、崩れるように消え去った。
静寂が戻る。
「……ハルト君……ハルト君!」
アサが縋りつくように駆け寄ってきた。
ハルトはその場に崩れ落ちるようにして座り込み、荒い息を吐いた。左腕の傷は深く、袖はすでに真っ赤に染まっている。それでも、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「よかった……アサ、無事、で……」
「なんで……! なんで、そんなに、ボロボロになってまで……!」
アサは泣いた。
「なんで私をかばったの?」
アサは泣きながら問いかける。
ハルトはフフっと優しく笑った。
「なんでだろう。大切な人だからかな」
「……それじゃ理由になってないよ」
アサは泣きながら反論するが、ハルトは抱き着いてくるアサの頭を優しくなでた。
「だって、ハルト君は今こんなに傷だらけなのに」
「それ、そっくりそのまま返すよ」




