83話 鉱山内での戦闘
西武秩父駅の改札を抜けると、観光地特有ののんびりとした空気とは裏腹に、桑原の表情は一段と引き締まっていた。
「――こちらです」
タブレットの画面には、地図と共に、いくつかの文字が並んでいた。
「秩父市内で、ここ2週間ほどの間に、行方不明者が3名。いずれも、武甲山近くにある、閉山した石灰石採掘場の関連施設付近で目撃されたのを最後に、消息を絶っています」
「廃工場……ってこと?」
「はい。総務省の調査で、その施設内に、悪魔化した人間が潜伏している可能性が高いと判断されました。今回の任務は、その個体の確保、あるいは――」
桑原は一瞬言い淀んだ。
「討伐です」
アサの表情から、それまでの旅の高揚感が、すっと消えていく。
「わかった。案内してくれる?」
「自分は、ここまでです。施設の中までは、同行できません」
桑原は、駅前のロータリーに停まっていた公用車のキーを取り出した。
「非戦闘員は現場付近で待機、というのが規則なので。……皆さんを施設の近くまで送り届けたら、自分は安全な距離から状況を記録して、本部に報告するだけの役目です」
その声には、少しの悔しさと、多くの安堵が滲んでいた。
ハルトはそれを、責める気にはなれなかった。
車で山道を20分ほど進んだ先、木々に埋もれるようにして、その施設はあった。
かつてセメントの原料を運び出していたであろう、錆びついたベルトコンベアが、蔦に絡まれたまま斜めに傾いている。
コンクリートの壁には、長年の雨風でできた黒い染みが、まるで血管のように張り巡らされていた。
「ここね……」
アサの声が、いつもより低い。
彼女の右手は、いつでも魔法を放てるように魔力が込められ始めている。
「ハルト君、離れないで。それと」
アサは一度、ハルトの目をまっすぐに見た。
「今日は、絶対に無理しないで。……お願いだから」
その言葉に、ハルトは静かに頷いた。
だが、握りしめた右の掌には、じんわりと汗が滲んでいる。
二か月前まで、何一つ力を持たなかった自分の手のひら。
今はそこに、ヒマリから教わった、まだ頼りない光が眠っている。
(今日こそ――)
崩れかけた搬入口から中へ入ると、粉塵の匂いと共に、耳障りな唸り声が、施設の奥から響いてきた。
「――そこか」
アサが呟いた瞬間、暗闇の中から、何かが飛び出してきた。
かつて人間だったであろうそれは、皮膚の一部が黒く硬質化し、背中からは棘のような突起がいくつも突き出ていた。
目だけが、異様な赤色に爛々と光っている。
「ぐ、が……ああああっ!!」
雄叫びと共に、化け物と化した男が突進してくる。
「離れて!」
アサが叫び、右手を前に伸ばすと、目の前に半透明の障壁が展開された。
男の一撃は障壁に阻まれ、鈍い衝撃音と共に弾け飛ぶ。
(今だ!)
その隙を狙ったかのように、ハルトはアサの横に飛び出し、掌を敵に向けて真っ直ぐに突き出した。
(届け――)
脳裏に思い描くのは、いつもの光景。
分岐も迂回もない、まっすぐな線路。
掌の中心に、青白い光が生まれる。
それは糸のような光条となって、たじろぐ男の脇腹めがけて放たれた。
――パシッ。
小さな、けれど確かな衝撃が、男の身体を僅かによろめかせた。
「……当たった!」
思わず声が漏れる。
訓練施設の的とは違う、生きて動く敵に、初めて自分の魔法が届いた瞬間だった。
あの夜、そらとの戦いで、拳を握りしめることしかできなかった自分とは、確かに違う。
だが、その高揚は、一瞬で吹き飛んだ。
「――ウガァッ!!」
男は、怯むどころか、逆に怒りを増幅させたように咆哮した。
ハルトの光など、傷にすらなっていない。棘の生えた腕が、無防備なハルトの真横から、唸りを上げて振り下ろされる。
(避けられ――)
頭では理解していても、身体が硬直して動かない。またあの夜と同じだ、という絶望が、一瞬でハルトの背筋を凍らせる。
「――っ!!」
視界を、白い光が遮った。
アサが、体ごと割り込んでいた。
展開された障壁が、男の一撃を真正面から受け止める。
ミシリ、と嫌な音を立てて、障壁に亀裂が走った。
「アサ!」
「大丈夫……。ちょっと下がってて!」
歯を食いしばりながら、アサは自ら展開した障壁魔法で相手を押し返す。
防御越しに込められた反撃の光が、男の身体を吹き飛ばし、崩れかけた壁の一角に叩きつけた。
土煙が舞い上がり、男はそのまま、瓦礫の下敷きになって動かなくなる。
静寂が戻る。
「……終わった、の?」
「たぶん。……このまま総務省の回収班に引き渡すわ」
アサは杖を下ろし、大きく息を吐いた。
だがすぐに、鋭い視線をハルトへと向ける。
「さっき、なんで動かなかったの! あのままだったら、腕、持っていかれてたわよ!?」
「ご、ごめん……分かってはいたんだけど、身体が」
「分かってて動けないのが、一番危ないの! まったく……」
アサの声は怒っていた。
だが、その語尾は、隠しきれない震えを帯びている。
彼女の手が、ハルトの服の袖を、強く握りしめていた。
「……心臓、止まるかと思った」
「……アサ」
「絶対……絶対に、無茶しないでって言ったじゃない」
うつむいたまま、消え入りそうな声で呟くアサに、ハルトはかける言葉を探して、しばらく立ち尽くした。
「……ごめん。でも」
ハルトは、まだ僅かに痺れの残る右手を見つめた。
「今日、初めて……当たったんだ。僕の魔法が、ちゃんと敵に届いた」
その言葉に、アサは顔を上げた。怒りに満ちていた瞳の奥に、戸惑うような色が浮かぶ。
「前の僕だったら、多分、あの一撃を見てるだけで終わってた。今日は、少しだけ……前に進めた気がしたんだ」
「……」
アサは、しばらく黙り込んでいた。やがて、小さく、諦めたようなため息をつく。
「……そういうところ。次は自分の命、大事にして」
そう言って、アサはハルトの手を、そっと握った。まだ震えの残る、けれど確かな温もりだった。
「認めてあげるわ。ちゃんと、前より強くなってる。……でも」
アサは、真正面からハルトを見つめた。
「私は、まだまだハルト君を守る。だから、ハルト君も無茶だけはしないで」
「うん。……ありがとう、アサ」
崩れた瓦礫の向こうから、遠慮がちに近づいてくる足音が聞こえた。
物陰から様子を伺っていたらしい桑原が、タブレット片手に、恐る恐る顔を覗かせている。
「あ、あの……終わり、ましたか?」
「はい。あとは回収班にお願い」
「り、了解です……。いやぁ、遠くから見てただけなのに、めちゃくちゃ心臓に悪かったです……」
へなへなと座り込む桑原に、ハルトは思わず苦笑いを浮かべた。
まだ細く、頼りない光ではあったけれど――その掌に灯った小さな力は、確かに、次の一歩へと繋がっていた。




