82話 特急ちちぶ号
池袋駅、西武線の改札口。
夏休み中なので、平日の朝時間帯にも関わらず、そこまで混雑していなかった。
そんな雑踏の隅、柱の陰に、見慣れた影が三つ並んでいた。
「……ねえハルト君」
「どうした、アサ?」
アサは腕を組み、値踏みするような視線を、少し離れた場所でせわしなくタブレットを操作している青年へ向けていた。
「どうしてこいつがついて来てるのかしら?」
「……まあ、組織の都合だよね」
視線に気づいたのか、青年が慌てて顔を上げ、ぺこりと頭を下げる。
「どうも、総務省異界管理局事務員の桑原です。本日の任務の監督役として、同行させていただきます」
「……で、その手に持ってるカメラは何かしら?」
「えっと……今回の遠征任務のついでに、ナルトchとしての動画の撮影も行おうと思いまして……。ほら、銀次チャンネルとのコラボ回にもなるかなぁって……」
アサの眉が、みるみるうちに吊り上がった。
「ばっかじゃない!? これから私とハルト君は悪魔を討伐に行くのよ! 命かかってるってわかってるの!?」
「ひっ……。ごめんなさい」
たじろぐ桑原の姿に、ハルトは思わず苦笑した。
「……桑原、気持ちはすごいわかるぞ。僕だって、ここ1か月くらい、いろんなことがありすぎて、動画投稿どころか撮影すらできていない状況だからな。……だけど、流石に空気は読んでくれ」
「……たしかに、自分が悪かったです」
しゅん、と肩を落とした桑原は、素直に構えていたカメラをバッグへとしまい込み、代わりに、無骨な業務用のタブレット端末を取り出した。
「それは何かしら?」
「これは、業務用タブレッドです。最近は公務員でも、ITによる職場改革が進んでいて、その一環で導入されたらしいですよ」
「なるほど。お役所っていつまでも堅いイメージがあったけど、最近はそうでもないんだな……」
感心したように呟くアサとハルトに、桑原が誇らしげに頷く。
ふと腕時計に目をやったハルトが、慌てて口を挟んだ。
「それよりハルト君。あの特急に乗るんじゃないの? もうすぐ発車時刻になるわよ?」
「おっと! 急がないと」
三人は改札を抜け、慌ただしくホームへの階段を駆け上がった。
「桑原も切符を用意した?」
「……あの、一応自分も鉄オタなんですけど……」
「確かにそうだった」
ハルト達が乗車したのは、池袋を8時30分に出る、特急ちちぶ7号の西武秩父行きである。
車両は001系、通称ラビューと呼ばれる特急型車両が使用されており、ソーセージを彷彿とさせる丸いロケットのような全面と大型の窓ガラスが特徴の、西武鉄道ご自慢の新型特急車両である。
「すごい! 近未来の電車みたい!」
アサが驚きのあまり、目を輝かせながら声を漏らす。
「うん。この車両は、2019年に運転を開始した西武鉄道の新世代特急車両で、リビングのようにくつろげるような内装にしたんだって」
ハルトが簡単に解説を挟む。
「自分は、一世代前のニューレッドアロー車両のほうが好きなんですけど、池袋線ではこの車両の導入と同時に、撤退してしまって……。残った新宿線でも、2027年のダイヤ改正で、ライナー用車両に置き換わってしまうんです」
桑原はそう言いながら、スマートフォンを取り出し、西武鉄道の一世代前の特急型車両――通称ニューレッドアロー――の写真を、ハルトとアサに見せた。
丸いLaviewとは対照的な、直線的で武骨なフォルムの車両だった。
「こっちもカッコいいわね。今でも走っていて違和感ないデザインだわ」
「うん。まあでもこの車両も、登場から30年経って老朽化してるからしょうがないんだよね……」
「一応、富山県の私鉄、富山地方鉄道に行けば、現役で譲渡されたこの車両に乗車することができるそうですよ」
「へぇ。富山! いいなぁ。行ってみたい!」
アサのそのセリフで、ハルトはアサやヒマリを連れて、関東地方を出たことがないことに気が付いた。
鉄道オタクとしても、旅行オタクとしても、一人の友人としても、アサやヒマリといろんな景色を見に行けてない現状の悔しさに、ハルトの胸の中は僅かにうずいた。
「アサ。全部終わったら、富山でもどこでも、日本全国いろんなところに旅行しよう」
その言葉に、アサはフフッと小さく笑った。
「もう何よ急に。でも確かに、もっといろんなところに旅行に行きたいわ」
「じゃあ約束だ」
「……そうね」
窓の外を眺めながら交わされた、なんでもないその約束は、しかし、まだ何も知らないアサに向けられた、ハルトのささやかな贖罪でもあった。
そんなことを話し合ってるうちに、特急ちちぶ7号は、ゆっくりと池袋駅を出発した。
駅を出てすぐに、線路は高架にあがり、山手線の線路をオーバーパスする。
しばらくは、住宅街の裏路地のようなところをゆっくりと進んでいくが、練馬駅で地下鉄方面からの線路が合流してくると、線路は高架に上がり、高速運転を開始する。
練馬と石神井公園の間の区間は、短いながら、前を走る各駅停車を追い越せる複々線区間となっているのだ。
石神井公園でそれは終わり、線路が再び地上に降りた後も、高速運転は続き、大泉学園、保谷、ひばりが丘と、比較的利用客が多い急行停車駅をどんどん通過していく。
秋津駅を過ぎて、大きなS字カーブを低速で抜けると、所沢駅に到着した。
「この駅も大きい駅だね!」
「うん。所沢は西部の本拠地だからね。近くには、西武ライオンズの球場もあるよ」
「えっ!? 西武ライオンズの球場ってこんなところにあるんだ!?」
桑原は今の解説を聞いて何か言いたそうだったが、我慢しているように見えた。
実際、西武ライオンズの本拠地――ベルーナドームは、近いとはいっても所沢から更に電車で4駅ほど離れており、まあまあの距離がある。
その西武球場へ向かう路線と分岐する西所沢と、その次の西武池袋線でトップクラスに大きな車両基地が併設されている小手指を通過すると、車窓には、すこしずつ山のような丘陵と自然豊かな緑が流れ始めた。
途中入間市に停車し、しばらく丘陵地帯を進むと、西武池袋線の運転拠点でもあり、スイッチバックのターミナル駅、飯能駅に到着する。
「さて――ここからが本番だよ」
ハルトは席を立ち上がると、背もたれのレバーに手をかけた。
「え、ハルト君、何してるの?」
「見ててごらん」
がちゃん、と小気味良い音を立てて、シートの向きが180度回転する。呆気に取られるアサに、ハルトは得意げに笑いかけた。
「飯能から先は、進行方向が逆になるんだ。だから座席も、こうやって自分たちで回して、進行方向に合わせるんだよ」
「なんでそんな面倒なことになってるの?」
「地図で見ると分かりやすいんですけど」
桑原がタブレットを取り出し、路線図を表示させた。
「池袋線は、ここ飯能で北西方向に向きを変えて、西武秩父線に乗り入れるんです。でも、線路をそのままつなげると大きく迂回することになってしまって……。だから、飯能駅でいったん進行方向を180度切り替える、スイッチバックという構造になっているんですよ」
「なるほどね……。じゃあ、この電車はさっきまでお尻から進んでたのに、今度は頭から進むってこと?」
「いや、Laviewは両先頭が運転台になってるから、乗務員が反対側の運転台に移動するだけで、車両自体は同じ向きのまま進むんだ。だから僕らみたいに座席を回すだけでいいの」
説明を受け、アサは感心したように何度も頷いていた。
数分の停車を終え、特急ちちぶ7号は、今度は北西へと進路を取り、静かに飯能駅を後にした。
ここから先、車窓の色合いは一変する。都市近郊の住宅地は姿を消し、代わりに、高麗川が刻んだ谷筋に沿って、国道299号と線路が寄り添うように山間を分け入っていく。
「わぁ……なんか、急に山の中に来た感じ!」
「うん。ここから先の区間は、飯能~西武秩父間のほとんどが単線なんだ。20パーミルを超える急な勾配と急カーブが連続する、山岳路線みたいな区間になるんだよ」
「にじゅうぱーみる……?」
「線路の傾きを表す単位です。1000メートル進むごとに20メートル登る急な坂、っていう意味ですね」
桑原が横から補足すると、アサは「へぇ」と感心したような、それでいてよく分かっていなさそうな相槌を打った。
東飯能、高麗、武蔵横手――単線区間ゆえに対向列車とのすれ違いのために時折速度を落としながら、特急は小さな無人駅を次々と通過していく。
車窓には切り立った斜面とうっそうと茂る木々が迫り、都心からわずか1時間ほどの距離とは思えないほど、深い山の気配が漂っていた。
「終点の吾野を過ぎると、いよいよ埼玉県内でも指折りの山岳区間に入るよ」
ハルトの言葉通り、電車は西吾野を過ぎたあたりから勾配を刻みながらゆっくりと高度を上げていく。
やがて、正丸駅を通過すると同時に、あたりが唐突に暗闇に包まれた。
「わっ、真っ暗!」
「正丸トンネルだよ。全長4811メートル、1969年の開通当時は私鉄で日本最長のトンネルだったんだ」
「4.8キロも!? こんな山の中に、よくそんなものを掘ったわね……」
「トンネルの真ん中あたりには、正丸トンネル信号場っていう、単線区間ですれ違うための設備があるんです。今はダイヤが空いてるので使われないことも多いですけど、昔はこの真っ暗闇の中で、上りと下りの特急がすれ違ってたんですよ」
桑原の解説に、アサは少し身震いをするように肩をすくめた。
3分半ほど続いた暗闇を抜けると、視界に飛び込んできたのは、抜けるような秋空と、幾重にも連なる山々の稜線だった。
芦ヶ久保を通過し、いくつかの短いトンネルをくぐるたびに、車窓はさらに開けていく。
「あ、見て! あの山、なんか変な形してない?」
アサが指さした先――進行方向左手に、山肌が幾何学的な階段状に削り取られた、異様な姿の山がそびえていた。
「武甲山だよ。石灰石の採掘が今も続いていて、削られた部分があんな風に段々になってるんだ」
「山を、削っちゃうの……?」
「そう。秩父はセメント産業で有名な土地だからね。……まあ、複雑な気持ちにはなるけど」
武甲山を借景にしながら、特急は横瀬駅へと速度を落としていく。
ホーム手前、車窓左手には、幾筋ものレールが並ぶ広大な敷地が見えた。
「あそこは横瀬車両基地。廃車になった古い車両の解体場だったり、保存車両の保管場所として使われてるんだよ」
「なんだか、電車のお墓みたいね」
しんみりとした声で呟くアサに、ハルトは何と返そうか、一瞬迷った。
横瀬駅を発車すると、電車は最後のトンネルへと吸い込まれていく。
ハルトの記憶が正しければ、この上には芝桜の名所として知られる羊山公園があるはずだった。
トンネルを抜け、緩やかな右カーブを曲がり切ると、視界がふっと開ける。
ビルというビルはなく、盆地特有の穏やかな街並みと、それを取り囲む山々のパノラマが、車窓いっぱいに広がっていた。
「西武秩父、西武秩父。終点、西武秩父です」
車内アナウンスが流れ、電車は徐々に減速していく。
池袋を出発してから、およそ1時間20分――特急ちちぶ7号は、定刻通り、終点・西武秩父駅のホームに滑り込んだ。
「着いた……!」
アサが窓に張り付くようにして、外の景色を見つめている。
都会の喧騒とは無縁の、のどかで、それでいてどこか張り詰めた空気が漂う、山あいの終着駅。
これから自分たちが向かう先に、いったい何が待っているのか――。
浮き立つような旅の高揚感の裏側で、ハルトはひとり、これから始まる任務への緊張を、静かに噛み締めていた。




