四幕 試合と清算
秋になった。
夏の暑さが引き、合宿所の廊下を吹き抜ける風が少しずつ冷たくなってきた。朝晩は虫の声が変わり、夕暮れが早くなった。道場の窓から見える空が、いつの間にか高く澄んでいた。
先輩たちは全日本学生剣道選手権大会に出場した。地区予選を勝ち上がり、今大会の主将を務めるのは貝賀先輩だった。
試合会場は都内の大きな体育館だった。畳を敷き詰めた広い会場に、各大学の選手たちが整列している。観客席には部員や家族が詰めかけ、熱気と緊張が混ざり合った独特の空気が漂っていた。胴着の藍色と、面を外した選手たちの険しい顔。どこかで竹刀を打ち合う乾いた音がして、遠くからは審判の声が聞こえてくる。
俺はスタンドから試合を見ていた。
先輩の剣は、夏を経てさらに研ぎ澄まされていた。あの夜から何かが削られていくようだった先輩が、道場に立つと別人のように見えた。気迫が違った。構えが違った。相手主将の技を全く寄せ付けず、攻め続け、押し続けた。それまで二対二で拮抗していた試合も、大将戦でうちが制するだろうと誰もが思っていた。
先輩はすでに口元に笑みを浮かべていた。
あの夜と、同じ笑みだった。
つばぜり合いに持ち込み、勢いよく押し飛ばす。相手はバランスを崩して倒れそうになった。そのまま飛び込んで面を放てばよかった。しかし先輩は、しっかりと打ち抜くことを選び、両手を上に構えた。
そこに隙が生まれた。
バランスを崩した体勢から、相手は竹刀の剣先を喉元へと向けて放った。先輩の重心は低く据えられ、飛び込みは思いのほか鋭かった。喉元を狙った剣先は面に当たり、その衝撃で竹刀が割れ、破片が面を突き抜け、そのまま先輩の左目に突き刺さった。
本来はありえない事故だった。
会場が静まり返った。審判が駆け寄り、選手たちが輪を作った。スタンドのどこかで、誰かが小さく息を飲む音がした。俺もただ立ち尽くしていた。床の上に膝をつく先輩の姿が、遠く、小さく見えた。
あれほど大きかった先輩が、急に小さく見えた。
先輩はそのまま左目を失明し、選手として競技を続けることができなくなった。しばらくして部を辞め、合宿所を後にした。
荷物をまとめる先輩の姿を、俺は廊下から見ていた。段ボール箱を一つ、また一つと運び出す背中は、道場に立っていたときとは別人のように丸かった。俺は何か声をかけようとして、やめた。先輩は一度も振り向かなかった。
大学の近くにアパートを借り、一応は大学へ通っていたそうだが、それも長くは続かなかった。先輩の同期たちが、たまに様子を見に行った。行くたびに、先輩は変わっていたそうだ。
話によると、先輩は畳の上に寝転がったまま天井を見上げていたそうだ。足元には空き缶が転がっていた。声をかけると起き上がり、しばらく話したが、何を話しても上の空で、すぐに視線が宙に泳いだという。
次に行ったときは、昼間から酒を飲んでいた。
その次に行ったときは、ドアを開けなかった。インターホンを押すと、中から気配はするのに返事がない。しばらく待って、帰った。そういうことが、何度か続いたそうだ。
やがて誰も行かなくなった。俺も行かなかった。行けなかった、と言った方が正確かもしれない。あの夜のことを思い出すたびに、足が向かなかった。
合宿所には新しい部員たちが入り、廊下には若い声が響いた。道場では竹刀の音がして、夜になると誰かが風呂を沸かし、食堂では笑い声がした。そういう当たり前の日常が戻ってきた。
日々の稽古に追われるうちに、先輩のことは少しずつ薄れていった。
忘れていた、と言った方が正確かもしれない。
人間というのは、忘れることで生きていける生き物だ。
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