五幕 両断
電話が鳴ったのは、翌年の夏に差し掛かった頃だった。
一階廊下の隅にある共同電話だ。たまたま近くを通りかかった俺が受話器を取った。電話の先は、合宿所からそう遠くない病院だった。受話器の向こうで事務の人間が慌てた様子で話しており、内容をよく聞き取れなかった。しかし、先輩の名前だけははっきりと聞こえた。
俺は受話器を握ったまま、しばらく動けなかった。
病院に着くと、廊下で警察と病院の関係者が待っていた。
話を聞いた。
その日、先輩は繁華街で飲み明かした帰り、フラフラとした足取りで駅のホームを歩いていたそうだ。ふとした拍子に、ホームから落ちた。ちょうどそのとき、特別快速が向かってきた。先輩は線路から這い出そうとしたが、間に合わなかった。
両足の太もも付け根を、車輪とレールに挟まれた。
病院に運ばれた時点では、まだ意識があったそうだ。何かにおびえるように、叫び続けていたという。
「悪かったー。許してくれー」
誰に向かって謝っているのか、居合わせた人間には分からなかったそうだ。
そのまま、息を引き取った。
俺はしばらく、病室の外の廊下に座り込んでいた。
看護師が何か声をかけてきたが、何と言われたのか覚えていない。ただ、廊下の冷たい床の感触だけが、やけにはっきりしていた。蛍光灯の白い明かりが、妙に眩しかった。窓の外には夜の街が広がっていて、遠くに街灯の橙色が点々と見えた。どこかで救急車のサイレンが鳴り、遠ざかっていった。
しばらくして、俺は立ち上がり、病室に入った。
病室の片隅に、顔を布で覆われた先輩が横たわっていた。部屋には消毒液の匂いが漂い、窓際のカーテンが空調の風でかすかに揺れていた。ポケットにあった財布には、少しばかりの小銭と、ぼろぼろになった学生証が入っていたそうだ。その裏に、合宿所の電話番号が書いてあった。
俺は白いシーツに手をかけ、めくった。
声が出なかった。
両腿の付け根で、それは……あまりにも綺麗に、終わっていた。
一週間かけて砥いだ、あの刃物のように。
俺はシーツをそっと戻した。手が震えていた。さっきからずっと震えていたのか、今この瞬間から震えだしたのか、自分でも分からなかった。
先輩が叫び続けていたという言葉が、頭の中で繰り返された。
悪かった。許してくれ。
誰に向かって、先輩は謝っていたのだろう。
俺には、分かる気がした。
病室を出ると、夜になっていた。
蒸し暑い夜だった。病院の玄関に立ち、俺はしばらく空を見上げた。じわりと汗がにじんだ。
どこかで、猫が鳴いていた。
捕らえられた母親でも探し求めているかのように、同じ鳴き声を何度も繰り返しながら。
俺はその声を聞きながら、あの夏の夜のことを思い出していた。蒸し暑い月夜。重苦しい風に揺れる木の葉。物悲しそうな目をした、あの猫のことを。
どこかで見たことのある目だと思っていたら、ふと脳裏をよぎるものがあった。
図書館の窓際に座っていた女性の目だ。
あのとき、俺が猫を捕まえなければよかった。
今さらそう思っても、何も変わらない。変えられるものは、もう何もない。
俺はうつむき、病院の駐車場をゆっくりと歩きだした。
猫はまだ鳴いていた。
終わり




