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三幕 気配

 合宿所で不思議なことが起こりだしたのは、それから一週間ほど経った頃だった。

 最初は音だった。

 みんなが寝静まった夜中、一階の食堂でガサゴソと何かが動く気配がする。最初に気がついたのは俺だった。ゴキブリかネズミの類だろうと思い、気にも留めなかった。同部屋の者も同じような音を聞いたことがあると言っていたが、誰も深刻には受け止めていなかった。

 それが何日も続いた。


 ある夜、音がしだしたとき、何人かで食堂に踏み込み、パッと電気を点けてみた。しかしそこには何もいない。翌日も、そのまたその翌日も同じだった。音はするのに、何もいない。

 やがて音に混じって、猫の鳴き声がするようになった。

 どこかから猫が入り込んでいるのかと思い、隅々まで探した。しかしやはり、何もいない。声だけがして、姿がない。それが一週間ほど続いた。俺はその都度、あの夜のことを思い出した。茶色いものが二つ、地面に落ちた光景を。


 夏の強化練習が終わると、八月初めから盆過ぎまでは帰省する者が多く、合宿所にはほとんど人がいなくなる。貝賀先輩と俺も居残り組で、ほとんど毎晩酒盛りをしていた。もっとも、俺は無理やり付き合わされていたのだが。

 居残り組の夜は、いつも同じだった。

 先輩の部屋に集まり、畳の上に缶ビールを並べる。窓を全開にして扇風機を回しても、体中から汗が噴き出てくる。誰かが扇子で仰ぎながら愚痴をこぼし、誰かが相槌を打つ。外では虫が鳴き、遠くから電車の音がする。そういう夜が、何日も続いた。

 その頃から、先輩が変わりはじめた。


 変わった、というより、何かが削られていく、という感じだった。もともと寡黙な人だったが、それとは違う。道場で素振りをしていても、途中で刀を下ろして黙って立っていることがある。飯を食いながら、ふと遠い目をする。酒を飲んでいても笑わなくなった。あれほど厳しかった稽古への口うるささも、いつしか消えていた。

 俺はその変化に気づいていたが、何も言えなかった。言える立場ではなかったし、言える言葉も持っていなかった。


 そしてある夜、それは起こった。

 その日はたまたま、俺は夜遅くまでアルバイトがあって合宿所にいなかった。居残り組の先輩たちは、いつものように先輩の部屋で酒盛りをしていた。夜が深くなるにつれ、外では猫がやけに騒いでいた。時計の針が十二時を回り、そろそろお開きという頃のことだ。

 先輩が、ぽつりと言った。


「猫の鳴き声が、うるさいのー」


 その瞬間だった。

 部屋の引き戸が「ガーッ」という大きな音とともに、勢いよく開いた。

 誰もいない。

 全員が息を飲んで引き戸を見た。廊下には誰もおらず、人がいた気配さえない。風が吹き込んだのかとも思ったが、窓から入ってくる夜風はほとんどなかった。誰かが冗談を言おうとして、やめた。そういう種類の沈黙だった。

 そのまま数秒が過ぎた。

 次の瞬間、引き戸が「ガー、ガッシャーンッ」という凄まじい音とともに勢いよく閉まった。あまりにも激しく閉まったため、引き戸に付いていた窓ガラスが割れた。

 先輩たちは怒号とともに立ち上がり、引き戸を開けて廊下に飛び出した。

 しかし廊下には、誰もいなかった。

 チリチリと点滅している白熱電灯の明かりは、廊下の中ほどまでしか届いていない。その奥はほら穴のようにしんと静まり返っている。外部から人が入った様子もなかった。合宿所にいたのは、先輩と居残り組の数名だけだ。

 後から聞いた話では、そのとき先輩は廊下の暗闇をしばらく見つめていたそうだ。誰かが声をかけても振り向かず、ただじっと、暗い廊下の奥を見ていた。

 先輩がようやく振り向いたとき、その顔から笑みは消えていた。


 翌日から、先輩は夜中に一人で飲むようになった。深夜に小用で廊下に出ると、先輩の部屋の電気がついている。ドアの隙間から漏れる明かりの下に、空き缶が一本、また一本と積み上がっていく。声をかけることもできず、俺はただ自分の部屋に戻るだけだった。

 ある晩、廊下ですれ違ったとき、先輩と目が合った。

 何かを堪えているような目だった。物悲しく、何かを訴えているような目だった。

 俺はとっさに視線を逸らした。

 先輩は何も言わず、通り過ぎた。

 外では相変わらず、猫が鳴いていた。捕らえられた母親でも探しているかのように、同じ鳴き声を何度も繰り返しながら。


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― 新着の感想 ―
先輩って呪われたんですかねぇ、まぁ呪われても仕方がないとは思いますが、厳しかった彼がだんだん大人しくなっていくの不気味ですね。 あの時代の人たちって肝が座ってますね。あきらかな怪現象が起きてるのに怒号…
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