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二幕 試し切り

 そのとき、いきなりドアが開いた。

 俺が付き人をしている貝賀先輩だった。

 貝賀先輩は、部でも一、二を争う剣の使い手だった。身の丈が六尺近くあり、道場に立つと空気が変わった。稽古は誰よりも厳しく、自分を痛めつけるように竹刀を振り続ける姿を、俺は何度も見た。強さに筋の通った人間というのは確かにいて、先輩はそういう種類の人間だと思っていた。

 思っていた、のだが。

 村田は気配を察し、音もなく廊下へ消えた。俺は急いで正座し、「ちわ」と短く挨拶するが早いか、先輩は不機嫌そうに命令した。


「おい、小田。猫を捕まえてこい」

「はっ……え?」

「猫だよ猫。ただでさえクソ暑い夜だというのに、さっきからニャーニャーと五月蠅くてかなわん。俺が成敗してやる」


 先輩は手拭いで額の汗を拭き、不機嫌そうに振り回した。


「あのー。成敗とおっしゃいますと」

「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと行って来いっ」

「はっ!」


 廊下の脇に置いてあるクモ取り用の虫取り網を手に取り、俺は階段を駆け下りた。

 夜の路地は蒸し暑く、アスファルトが昼間の熱を吐き出していた。街灯の下で目を凝らすと、塀の上に茶色い猫が一匹いた。俺が近づくと逃げる素振りも見せない。どうやら餌がもらえるものと思ったらしい。虫取り網を使うこともなくほどなくして捕まえ、合宿所に戻る。先輩の部屋のドアを叩いた。


「失礼しますっ。一回生小田、ただ今猫を捕獲してまいりました」

「よおーし、中庭の木に吊るせ」


 部屋の中で、何やら金属の擦れ合う音がする。


「……え? あ、あの。どういったことで」

「物干し台にロープが掛かってるから、それで猫を縛って、木の枝に吊るすんだよ」


 金属の音が大きくなった。


「あ、いえ、自分がお聞きしたいのは、そういうことではなく。……で、出来ま……」

「さっさとやれーっ!」


 俺は一旦、猫を連れて中庭へ向かおうとした。しかし足が止まった。

 嫌な予感がした。

 しばらく考えあぐね、やはり逃がそうと思い、猫を抱いて合宿所の玄関の方へ歩き出した。そのとき、後ろから大きな足音がした。重いものが階段をゆっくりと降りてくる。俺は立ち止まり、振り向かずに猫を抱きかかえた。足音は俺のすぐ後ろで止まった。

 背後から、殺気のようなものが漂ってきた。

 歯を噛みしめ、首をすぼめた。猫を逃がそうとしているところが見つかってしまった。先輩の命令に逆らったことになる。もうだめだ。しかしいつまでたっても殴られる気配がない。少しほっとしていたら、今度は後ろの方でヒュンヒュンと風を切る音がした。

 振り向くと、先輩は日本刀を鞭のように軽快に振り回していた。


「おーい、小田ー。音が違うだろー。どうだ、この風を切り裂く音」

「……」

「ここまで砥ぐのに一週間もかかったぞー」


 口元に笑みを浮かべていた。

 この後のことは、今でも鮮明に覚えている。

 猫を抱いた俺の手は小刻みに震えていた。「みーみー」とか細い声に誘われて手元に視線を落とす。物悲しそうな目をした猫と目が合った。その目が、ずっと俺を見ていた。怯えているのか、何かを訴えているのか、俺には分からなかった。


 どこかで見たことのある目だと思った。


 顔面蒼白のまま体が動かなくなった俺の腕から、先輩は猫を鷲掴みにして奪い取った。中庭への扉を勢いよく開け、外に出る。洗濯台のロープを手に取り、器用に猫を縛り、横にある木の枝に吊るした。

 蒸し暑い月夜に、重苦しい風が木の葉を揺らした。


「せ、先輩……何をなさるおつもりで」


 自分の声が頭の中に木霊する。体が震えた。呼吸が乱れ、額からこぼれる汗が涙と混ざった。目が沁みて、すぐ前で起こっていることをはっきりと見ることができない。

 微かに、先輩が刀を大きく振り上げたのが見えた。

 ヒュン、という音。それからぽとっと何かが落ちた。


「ギャーーーッ!」


 俺はハッと我に返り、涙を拭った。今聞こえた叫び声は自分の発したものだったのか。

 腰から血を噴き出しながら暴れている猫がいた。その真下に、茶色いものが二つ落ちている。それが猫の足だと気がつくのに、少し時間がかかった。

 先輩はふんと鼻息を荒げ、ゆっくりとかぶりを振り、二太刀目を構えた。

 俺は全身の力が抜けたまま、足をガクガクさせながら先輩に飛びついた。俺よりも頭二つ分ほど身の丈のある先輩は微動だにしない。


「先輩。や、やめ……やめてください。……お願い致します」


 やっとのこと声を絞り出した。ガチガチと歯がかすれ合う。汗と涙と鼻水にまみれた俺の顔は、先輩の動きを止めるには十分だった。先輩はそんな俺の姿を見てしばし戸惑い、刀を静かに下ろした。そして何も言わず、そのまま部屋へと戻っていった。


「あ、ありがとう……ござ……ございましたぁ」


 俺はがくりと膝をつき、嗚咽にまみれた声を出しながら、先輩が去っていった方向へ深々と頭を下げた。

 猫は擦れた声で途切れ途切れに鳴いていたが、しばらくすると小さなため息のような声とともに目を閉じた。


 夜が明けるまで、俺はその場を離れられなかった。


 あのとき、俺が猫を捕まえなければよかった。そのことだけを、ずっと考えていた。


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― 新着の感想 ―
最低な先輩ですね・・・ど、どういう神経でいらしたのか。耳障りなだけでって、本当にアグレッシブな先輩だ。 なんか、あの時代なら当たり前だったんでしょうね。先輩に逆らえないからこそのトラウマって、この時代…
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