一幕 蒸し風呂
かれこれ三十年ほど前の話です。
毎年夏になると思い出す。扇風機の音と、ぬるいビールと、窓の外で鳴いていた猫のことを。
剣道部の友人から聞いた話ですのでいくらか脚色してあると思いますが、できるだけそのまま書き残しておきたいと思い、筆を取りました。
かなり衝撃的なシーンがあるので苦手な方はご遠慮ください。
扇風機の風が汗ばんだ首筋をなでた。
かれこれ三十年ほど前の話だ。俺が大学の体育会剣道部に入ったのは、剣道が好きだったからではない。先輩に誘われ、断り切れなかった。
昭和時代の大学体育会というものは、今の若い人間には想像もつかないだろう。同時代を生きた年配の方なら、俺が多くを語らなくとも分かってもらえると思う。稽古の厳しさは筆舌に尽くし難く、死人が出ないのが不思議なほどだ。先輩の命令は絶対で、逆らうという選択肢は最初から存在しなかった。
その体育会気質をさらに濃くしていたのが、「付き人制」という伝統だった。上級生一人に下級生一人が付き、身辺の世話をする制度だ。先輩たちは後輩に厳しかったが、同時に自分にも厳しかった。後輩はその背中を見ながら育っていく。理屈の上では、良き伝統だったのかもしれない。もっとも、中にはとんでもない人間がいるのは世の常だが。
合宿所は大学キャンパスのすぐ隣りにあり、都心からは電車で四十分ほど離れた郊外にあった。古い木造の二階建てで、廊下を歩くたびに床板がきしんだ。壁には長年の汗と埃が染み込んでいて、夏になると饐えたような匂いが漂う。クーラーなど贅沢品で、一階の食堂に一台あるだけだ。俺たちが寝泊まりする二階の部屋は、まさに蒸し風呂だった。
ある夜のことだ。
四畳半に敷かれたせんべい布団に寝転がり、本を読んでいた。窓を全開にしても外の空気は生ぬるく、扇風機の首が左右に振れるたびに、同じ熱さの風が体をなでるだけだった。枕元に缶ビールが一本。とうにぬるくなっている。
同期の村田が部屋に転がり込んできたのは、十一時を過ぎた頃だった。
「暑くて眠れん」
それだけ言って、俺の布団の端に寝転がった。村田は同じ付き人仲間で、部屋は廊下を挟んだ向かいだ。こういう夜によく転がり込んでくる。
俺はぬるいビールを一本渡した。村田はそれを受け取り、プシュッと開けてひと口飲んだ。
「お前、まだあの子のこと考えてるんか」
突然のことで、俺は本から目を上げた。
「……何の話や」
「とぼけんな。図書館の。いつも窓際に座ってる子やろ」
俺は答えなかった。答える代わりに、自分のビールをひと口飲んだ。
村田の言う通りだった。同じ学部に、よく図書館で見かける女がいた。いつも決まって窓際の席で、外を見ていた。本を読んでいるのか、ただ外を眺めているのか、俺の席からは分からなかった。話しかけたことは、一度もない。
名前も知らない。何を考えているのかも知らない。ただ、あの窓際の横顔だけが、なぜか頭の隅に引っかかっていた。
「話しかけたらええやんか」
「うるさい」
「お前ってほんまに、大事なもんには手が出せんよな」
村田は笑いながらそう言い、ビールをまたひと口飲んだ。俺は何も言わなかった。
扇風機が首を振るたびに、生ぬるい風が畳の上をなでた。遠くから電車の音がして、やがて静かになった。
窓の外では、猫が鳴いていた。
仲間でも探しているのか、同じ鳴き声を何度も繰り返している。か細く、しかし執拗に。
俺はその声を聞きながら、図書館の窓際を思い出していた。あの横顔が、何かを堪えているように見えた日のことを。
大事なもんには手が出せん。
村田の言葉が、扇風機の風とともに消えた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この話は作り話であった欲しいと心底思っています。しかし、合宿所での怪現象はどうやら本当らしい。
夏になると、どこかで猫が鳴いています。




