第30話 道具は道具のままで終わらない
夜風がカーテンをなびかせる。
窓からやってきたメイを出迎えるとすぐにカーテンを閉め切った。部屋はまた真っ暗になってお互いの身体さえ見えなくなった。
「とにかくランプをつけましょう。どこにありますか?」
「部屋の隅。壁伝いに歩いたらすぐよ」
衣擦れの音がした。リーザはじっとしていた。何か物音が響いて、それから部屋がぽうっと明るくなる。向こうの方でオレンジ色の光がゆらゆらと揺れていた。メイの横顔は艶やかに照り輝いた。
「さあ、お座りください」
「メイも。ベッドしかないけれど、座って」
「……失礼いたします」
二人は腰かけてお互いの方を向いた。リーザは指を組んで、メイは横髪を耳にかけた。どちらから切り出せばいいものか分からなくて二人は同時に身を乗り出し、そして同時にはっとした。
「あの、ええと……メイからどうぞ。何か大切なことがあるんでしょ」
そう言うとメイは
「いえ、どうぞ王女の方からお先に」
とふるふる首を振った。
「そんなわけにはいかないよ。そりゃあ私だって言いたいことはたくさんあるけど、それよりメイの話の方が大切だもの」
まあ、どうやって窓まで来たのかくらいは先に聞きたいけれど、とリーザが笑うと、メイは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「簡単なことです……屋上から縄を使って下りてきました」
手をもじもじとさせながら小さな声で言う。思ってもいないような返事――――とは言えそれ以外にないだろうけれど――――にリーザは噴き出してしまった。
「そんな、昔の私じゃあるまいし!」
思わず大きな声を出すとメイはますます縮こまった。きっと耳まで真っ赤なのだろう。慌てて「はしたないだなんて思っていないのよ」と付け加えるが、それでも何だかおかしくてリーザはくすくすと笑ってしまった。まじめな顔をしたいのにどうしてもこみあげてくるのだ。
「でも、縄1本だなんて怖かったでしょ」
「ええ……。縄が切れたら真っ逆さまかと思うと気が気でありませんでした。あんなに恐ろしいこと、リーザ様はよくできましたね」
「だって私、度胸には自信があるのよ」
目にうっすらと涙の幕を張りながらリーザは少しだけ昔のことを思い出していた。アリスティドに出会うより前、ひょいひょいと木の枝を渡っていたころが懐かしかった。ひとしきり笑って満足したリーザは大きく息を吐く。頭はいくぶんかすっきりしていた。
「それじゃあ、そろそろ本題に入るけれど……。メイ、どうしてこんなところまで来たの? 誰かに知られればあなたもただじゃ済まないこと、わかっているよね?」
リーザは首も傾げず静かに問うた。メイは背筋をピンと伸ばす。
「一刻も早く、リーザ様にお伝えしなければならないことがあったのです」
このような危険を冒してでも、とメイは呟いた。
「ディラック様から私宛にお手紙があったことはお話しましたよね」
「ええ。全部合わせて三通……だったね?」
メイが小さく頷く。
「その中にはどうしても捨て置けない話がありました。最初はとうてい信じられませんでした。こんなことがあり得ていいはずがない。けれどリーザ様が軟禁されている以上、信じざるをえません。事態は想像以上に深刻です」
空気が重い。リーザはごくりと唾を飲む。
メイはしばらく口を閉ざした。次の言葉を口にするのをためらっていた。リーザは視線だけで促したけれど、それでも決心がつかないのかメイは数回瞬きした。パチパチと長い睫毛が揺れる。彼女の覚悟は決まらない。
リーザはずっと待っていた。もう急かしたりせず黙ったまま――――。そう長い時間ではなかった。けれど二人きりの部屋ではうんと長く感じられたのだ。メイは深呼吸して、ようやく唇を動かした。
「このままここにいれば――――リーザ様は殺されてしまいます」
長い時間をかけて、なのにたったそれだけの短い言葉だった。
リーザはあっけないほど簡単に理解した。どうしようもなく分かってしまって、ああ、と声を零す。天井を仰いだ。繊細な唐草模様だった。
「ああ、なんだ。そういうことだったの……」
そういうこと、だったのね。
リーザはいたって穏やかに呟いた。自分でも不思議なくらい驚きはしなかった。片手でそっと目元を覆う。誰のものより透き通った青い瞳を隠しながらリーザはしばらく放心していた。
それでも何となく分かっていたような気がするのだ――――自分の未来がろくでもないことを、きっと知っていた。
「リーザ様のお身体は特別にできています。無尽蔵に蓄えられた魔力を触れる者に分け与えることができる。少しずつ、小出しに。……ではもしリーザ様がお亡くなりになったとき、その魔力がどこへ行くのか、考えたことはおありですか」
いいえ、と答える。
「ディラック様によると、リーザ様のお身体から出てそこら中にまき散らされるのだそうです。たった一度に、残りのすべてが」
リーザは目を見開いた。
「……もしそれが本当なら」
ぶるり、と全身が震える。
「こんな戦争、すぐにだって終わる」
きっと魔術がすべてを終わらせてしまう。頭の奥がくらくらしてリーザは嘆息した。
自分は最初から最後まで道具だった――――もう悲しいなんて思わなかったけれど、それでもだいぶん虚しかった。リーザはあの男の冷たい灰色の瞳を思い出していた。いつだってどこか遠いところを見つめているような瞳だった。メイはすべてを塗り替えるような声でリーザの名を呼んだ。
「リーザ様、逃げましょう」
彼女がそう言いだすのは必然だった。
「今ならまだ間に合います。上でウィリアム様が見張りをしています。合図があれば引き上げていただく予定です。地図は頭に叩き込んでいますから、私が先導をすれば安全なところまで――――」
メイは切羽詰まったような声で訴えた。リーザはぼうっとしたまま聞いていた。頭はやけに冷静だった。
今から逃げたとして、無事に済めばそれでいい。たぶん何もかも上手くいくのだろう。だがもし捕まりでもしたら――――。自分は構わない。どうせ元の運命に戻るだけだ。ゼロからゼロに戻るだけ。しかしメイやウィリアムは違う。違うのだ。
リーザは静かに首を振った。
「メイ、帰ってちょうだい」
目は合わせられなかった。
「このことは忘れるから、あなたも忘れて」
メイはどうしようもないくらい傷ついた目でリーザを見た。
「お願いします」
立ち上がってリーザの手を握って、絨毯の上に膝をついた。まるで祈るように。
「一生のお願いです」
それを無下にしてしまうことはとてもつらいことだった。リーザは「ごめんなさい」と謝った。思ったより冷淡な声が出てしまって、そんなことまで悲しかった。
メイが泣いたらどうしよう、と思ったけれどそういうことにはならなかった。メイは頷かず返事もせず、ゆっくりと立ち上がって窓を開け放った。空から一本の縄が垂れ下がっていた。リーザは最後まで迷っていた。本当はあれに掴まりたかったのだ。
「来てくれてありがとう、メイ。ウィルにも伝えておいてね。嬉しかったって」
何とか堪えてリーザはへらっと笑う。メイはスカートをたくし上げて窓枠に足をかけて、そのまま星空に吸い込まれていった。
また一人になってリーザはため息をついた。開いたままになった窓を見つめて、いろいろなことを考えた。取り留めのないことをたくさん思ったりもした。
「ねえ、アリスティ――――」
ここにはいない彼を呼ぶ。
「会いたい」
……会いたいの。あなたに一目会いたい。何を言えばいいのか分からないし、伝えたいことなんてないのかもしれないけれど、いつだってあなたを思ってしまうから。
「会いたい――――」
もし、とリーザは思う。もしアリスティドに出会っていなかったら自分はここで大人しく眠っていたのだろうか。
「……考えたってしょうがないね」
リーザは静かに笑う。もうアリスティドに出会ってしまった。そして恋を――――心のすべてを奪われるほどの恋をしたのだ。
「お前は、永遠には程遠い――――」
かつて彼が口にした言葉をなぞっていく。アリスティドはきっと知っていたのだ。最初からすべて知ったうえで、だからずっと苦しんで、かたくなに拒み続けた。それでも最後にはリーザを選んだ。
リーザは窓の外を睨んだ。怖いことなど何もなかった。一人でもリーザは歩き出せる。
「こんなところで終わりたくない」
今日は風の強い夜だ。遠くからかすかに火薬のにおいがする。リーザは片手でカーテンを掴みながら窓枠を乗り越えた。




