第31話 地下牢にて
ぴちゃん、ぴちゃんと水の落ちる音がする。石でできた床や壁は固くて冷たい。どこからか漏れる風に横髪が揺れる。
リーザはむくりと身体を起こした。目を閉じてはいたけれど肩や背中が痛くてほとんど眠れていなかった。視界が薄くかすむ。
「おはようございます。調子はいかがです?」
声をかけられたがどうにも億劫で振り向くことすらしなかった。リーザは毛布をひっつかむと、それにくるまってもう一度目を閉じた。それくらいしかすることがないのだ――――朝も夜も分からない、鉄格子の向こう側では。
リーザのたくらみはあっけなく失敗した。
窓のへりを伝って逃げたところまでは良かったが、建物の外に出ることすらできず人を呼ばれてあっという間に拘束され、そのまま引きずられるように地下牢に放り込まれた。
またしてもリーザは囚われの身────ただし状況は明らかに悪化している。
「あの、食事の時間なんですけれど」
なおも声が続いた。リーザは顔をうずめたまま動かないことを決めていた。しかししつこく話しかければさすがに無視できなくて片目だけを開く。
「いらない」
槍を手にした見張り――――男物をまとっているがどうやら女性らしい――――は大げさに驚いてみせる。
「ああ、もう! またそんなことをおっしゃって。昨日だって一口も食べていないのに、そんなところで餓死なさるおつもりですか?」
「だって――――」
リーザは口をつぐんだ。けれど言いかけの言葉だけで分かったのか見張りは手を打った。
「毒でも入っているんじゃないかと?」
「……っ」
リーザはドキリとした。図星だった。木の器に盛られたパンも野菜もスープも、それが本当の食事かどうかは分からない。リーザは恐ろしくて手を付けられなかった。 唇を柔く噛んで空腹を紛らわせる――――リーザはもういつ殺されたっておかしくない。
見張りは呆れたように鼻で笑い、「別にいいですけれど」と言った。
「それならそれで、食器を返してください。片付けたいので」
彼女の声はひどくつまらなさそうだ。リーザは言う通りにしてやった。与えられたままの状態のそれらを一つずつ鉄格子の向こうに押し出した。どうするのかと思って見ていれば、見張りはパンの一切れに手を伸ばす。
「あ……」
リーザは思わず声を出してしまった。彼女はそのまま見せつけるように口に放り込んだ。
「ああ、美味しい」
リーザはごくりと喉を鳴らした。つまみぐいなんて許されない、とか他に言うことがあるのはずだが、今はお腹が空いて死んでしまいそうなのだ。彼女はもう一切れを指でつまんだ。それもまた口元に運んで――――。
「あら。物欲しそうな顔ですね、殿下」
彼女は今気が付いたという顔でリーザを見た。からかうような笑みを浮かべていた。それが憎らしくて、けれどそれよりもそのパンにばかり意識がいってしまう。リーザは恐怖やら意地やら欲求やらをすべて天秤に乗せて一瞬の間考えた。それはぐらぐらと大きく揺れてやがて一つの答えを出した。
「……やっぱりちょうだい。食べるから」
「よくできました」
いっそ屈辱的ですらあったが目の前の食事には代えられない。皿はすべてリーザのところに戻された。リーザは貪るようにしてそれらを口に入れた。パンをぎゅうぎゅうに詰め込んでスープで流し込んでいく。見張りは何も言わなかった。リーザの食事を黙って見つめるだけだった。気づけば皿が空になっていてリーザはふっと息をついた。
見張りは大きく伸びをすると鉄格子の前に座り込んだ。槍は小脇に挟んでいる。
「お腹が満たされたところで、殿下、二つほど報告があるのですが」
「……何」
短く返事をすると心外だとでも言うように両手を広げた。まあいいんですけれどねと彼女は口角を上げる。
「まずは一つ目。あなたの忠実なる騎士、ウィリアム・アーロンが馬鹿みたいに大暴れして独房に放り込まれました。以上」
リーザは鉄格子にしがみついた。薄暗い部屋のなかで見張りの顔がはっきりと見えた。視線を交えるのはこれが初めてだ。目元に小さなほくろがある、妙齢の女性だった。
「ウィルはどこ!?」
寒々とした石造りの小部屋に声がキンと響き渡る。リーザは鉄格子の隙間から腕を伸ばした。見張りの胸倉を掴んでぐんと引っ張ると彼女は息を詰まらせる。いつだって振り払えるはずなのにされるがままだ。
「ウィルはどうなるの!」
さあどうでしょう、と彼女は首を傾げた。
「ですがいろいろとやらかしていた気がしなくもないですね。もう邪魔ですし、ついでに処刑されるんじゃないですかねえ……」
「そんな」
リーザの声から力が抜けた。
「そんなものですよ」
見張りはリーザの手の上に手を重ね、指を一本一本丁寧に解いていく。リーザは爪を立てた――――こんなことになるなんて思ってもいなかった、なんていうのは嘘だ。
見張りはくすっと笑って立ち上がった。槍をくるりと回して今度は左で抱きかかえる。彼女の長く伸びた爪が鉄格子をゆっくりとなぞった。
「でも人の心配をしている場合でもないでしょう? 殿下もここにいればいずれ……いえ、近いうちに殺されるのですから」
「それは……そうだけれど!」
「けれど?」
「あの二人に何かあったら、私」
私、どうしたら。この先はうまく言葉にならなかった。考えれば考えるほど頭のなかが真っ白になってどうしようもない。
「どうしてこんなことに……」
「決まっているでしょう、これが殿下の運命だからです」
ずるずると座りんで、リーザは自分の足先に視線を落とした。たまらない気持ちになって思わず足で鉄格子を蹴り飛ばした。にぶい音とにぶい痛みが同時にやってきてほんの少し冷静になった。
お行儀が悪いですよ、なんてたしなめる彼女にはほとほと呆れてしまうが、ある意味度胸があると感心してしまう。リーザは小さなため息を吐いた。
「……それで、もう一つって何」
「ええ?」
「報告は二つあるんでしょ。もうこれ以上は勘弁してほしいけれど、聞かないわけにはいかないじゃない……」
見張りは「ああ!」と声を上げた。
「そう、すっかり忘れていました。もう一つのは報告というよりは伝言なのですが……長いのでしっかり聞いてくださいね。二度は読みませんよ」
見張りはどこからか薄汚れた紙を出してきた。それを目の前にかざす。そうして一言一句を逃さないようにゆっくりと読み上げた。
「――――お前がもう少し淑やかなレディならここまで面倒にならなかった」
「……?」
「お前があの手に乗ってこないのはわかっていた。どうせ自分一人で逃げればいいとか思っているのだろう。ただ、こちらも考えなしで動いているわけではないとわからなかったのか。……そうは言っても今さらだからしかたがないな。お前のありあまる行動力を矯正できなかった俺も俺だ。だが今度こそ、本当に今度こそ、そこで大人しくしていろ。頼むから手間を増やしてくれるな」
以上です、と付け加えた彼女はうかがうようにリーザを見る。リーザはぽかんと口を開けたままだった。
「ねえ、待ってよ」
リーザは片手で制するとくるりと背を向け、ぶつぶつと呟き始めた。
「この不敬さ、不遜さは間違いなく……でもでも、そんなの……。だってここは牢で、私捕まってて、こんなのあり得なくって……ああ、もうわけがわからない! 大体私は淑やかなレディよ!」
「淑やかなレディは窓から逃げませんし、人の胸倉を掴みません」
リーザはぎろりと睨みつけた。見張りは悪気なさそうにへらへらと笑っていた。
「失礼」
彼女はもう少し笑ってから槍を右手に持ち替えた。ちっとも悪びれた様子がなくてリーザは悪態の一つでもつきたい気分だったが、彼女が紙を宙で手放すので思わず視線を奪われる。彼女はぼそぼそと何かを呟いた。
「――――」
それが何だったのかリーザは聞き取れなかった。けれど宙でぼうっと燃える紙を見て、あれはルーディア語だったのだと思った。リーザは両目を見開く。
「あなた、魔術の心得なんて――――」
言いかけたのを、彼女が笑みだけで止めた。薄い唇に人差し指を当てている。
「それ以上は考えないでください。それこそ面倒です」
「でも、ただの見張りがそんな……」
「だから考えないでくださいってば」
彼女は廊下に座り込むと槍を抱いたまま静かに目を閉じた。居眠りだなんて呑気ね、とリーザは呟き、同じように瞼を下ろした。話し相手を失ってはやはり眠るしかない。




