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第28話 そして歯車は狂い始めた

 戦場でのリーザの生活は不規則なものだった。


 いつ出陣の命令が下るかは分からない。たとえば昼食を取っている間、やっと取れたつかの間の休息、もしかすると眠っているような時間にさえ迎えが来る。


 そうなればリーザはすぐに簡素な鎧を身に着け城塞を出た。大賢者と呼ばれる男とウィリアム、そのほか数人の守り手とともに後衛まで出向くのだ。城塞で待っていてはとても治療が間に合わないというのが一つ、そして空に張り巡らせた魔術防御の結界の修復が理由だった。


 それが必要だということはよく分かっているし、誰にも代われない、リーザだけができる仕事だ。駄々をこねるような子どもではないが、それでも疲れるものは疲れる。リーザはぼんやりとした表情のまま立ち尽くしていた。


「リーザ」


 城塞の表門を見上げていたリーザはぱっと振り向いた。そこにはウィリアムがいてリーザを見つめていた。同じように彼もまた準備を終えている。


二人はもうすぐ前線まで出向かなければならないのだ。残された時間はあとわずか、今日も無事でいられる確証などどこにもない。


「どうしたの」


 リーザは小首を傾げた。声をかけてきたのは彼なのに黙ったまま何か考え込むような表情だ。リーザはもう一度どうしたのと尋ねた。


「ああ……ごめん。やっぱり何でもない」


 ウィリアムはそれだけ言うとリーザの隣に並んだ。しばらく一緒に門を見上げていた。それでも何か言いたそうに口をもごもごさせるから気になってしかたがない。何でもないって言ったくせに――――と思いつつもリーザは彼の腕をつつく。


「ねえ、なあに」

「何って……」

「だから、何か私に言いたいことがあるんでしょ」


 リーザがぐっと顔を近づけると彼はのけぞるようにして逃げた。


「いや、本当、こんなこと言っても仕方ないっていうか、リーザが怒りそうっていうか」

「……何かやらかしたの?」

「そういうわけでもないっていうか」

「何言ってるか分からないからちゃんと言ってよ。……私が怒らずにいる自信はないけど」

「結局怒るのかよ」


 リーザはくすくすと笑った。


「怒らないって言ったのに怒る方が駄目よ」

「怒るって宣言したくせに言わせるのも駄目だろ……。理不尽だ」


 まあいいやと呟くと、彼はリーザの手を取った。手の甲をするりと撫でる。いまだ治りきっていない擦り傷が鈍く痛んでリーザは身体を強張らせた。ピリピリと痺れるようで肩が跳ねる。それなのにウィリアムはやめない。


 何かを確かめるように傷口一つ一つに触れていく。リーザは痛いと訴えた。彼が聞かないので身体をよじる。


「ごめんな、リーザ」


 リーザは小さく頷く。その言葉はいつまでも傷に触れていたことに対するものだと思っていたからだ。リーザはいいよと短く返す。それで終わりのつもりだった。けれど本当は違った。彼は力なくうなだれる。


「ごめん。守ってやれなくて、ごめん」


 ただ後悔だけがそこにあった。絞り出したようなその言葉にリーザは目を見開く。


「俺、お前に何にもしてやれない……」


 思わず言葉を失った。喉と唇を震わせて、それなのに息しかできない。ようやく出てきたのは「ばか」の一言だった。


「ずっと、そんなことを思っていたの」


 ウィリアムは答えない。


「こんなの、しかたないことなのに――――」


 リーザは一度だって彼を責めたことはない。これは自分が背負うべきものだと思っていた。それでも彼は悲痛そうに目を伏せる。


「俺が代わってやれればいいのになあ、全部」


 リーザは両手を握りしめる。悲しいというより切なくて、切ないというより悔しくて、どうしてだろう、彼を殴ってやりたかった。頬を一発思いきり。そうすれば彼は目を覚ますのかもしれない。だけどできるはずもなくてリーザは唇を噛んだ。そして泣くものかと思った。


「私は、ウィルのことだって同じくらい大切よ。代わってほしいだなんて思ったこともない。どうしてそんなことが分からないの」


 どうして、とリーザは彼の肩を揺さぶった。


「私だってウィルに何にもしてあげられない。こんなところにまで連れてきて、それで私を守ってなんて図々しいことを言ってるの! なのにウィルはどうしてそんなこと……」


 ウィルは情けない笑みを浮かべた。


「たぶん俺は、リーザのそういうところが好きなんだ――――だから余計に、俺が何とかしてやらなきゃって思うんだよ」


 俺の方がよっぽど図々しいと彼は言った。それは自虐のように聞こえたけれどどこか清々しくて、やはり彼はずっと彼のままだ。リーザはゆるゆると首を振り今度はリーザが彼の手を握った。


「私と一緒に戦って」


 お願い、と呟く。


「それだけで、いいの」


 ウィリアムの黒い瞳の奥を見つめる。彼はこくりと頷いた。それが心からのものかは分からない。リーザはもう一度、同じ言葉を繰り返した。念押しするようなそれは、彼がいつか無茶をしてしまう気がして、それがとても恐ろしかったからだ。


 遠くで鐘の音が響いていた。







 月日は淀むことなく、残酷に過ぎてゆく。


 あっという間に二年がたってリーザは十八歳になった。戦場に立ってから実に四年、非日常が日常に成り果て、それを不思議とすら思わなくなっていた。


 すでに夜着をまとっているリーザはベッドにもぐりこむわけでもなく鏡の前に立ち、自分の姿をじろじろと眺める。城にいたころは軽く化粧をしていたが今ではすっかり無縁だ。それどころか肌をいたわる余裕もなく、頬のあたりが白くパサパサに乾燥している。もともと肩甲骨あたりまでだった金髪はいまや腰まで伸びてしまっていた。切ってしまえばいいのにと思うが、何か不吉な気もするのでいつも躊躇する。結局下の方でひとまとめにするだけに済ませた。


 リーザは部屋を出た。人気のない廊下をずんずん突き進んだ。城塞にはほとんど窓がないが、時々物見のためにそれがある。四角く切り取られた夜空には星々がきらめいている。今日はいくらか明るい夜だった。


「……今夜は大丈夫そうね」


 リーザはぽつりとひとり言を漏らした。こういう夜には奇襲が成功しないともう分かっている。朝まで静かに過ごせそうだ。


「さあ、人がいなければいいけど……」


 リーザは角を曲がった。この先は行き止まりで一つの大部屋しかない。リーザは足音がしないのを確かめてからそろそろと扉に近づいた。ゆっくりと身体を寄せ扉に耳を当てる。鉄はキンと冷たいが中の声がわずかに聞こえた。そのどれもが年配のものだった。


「前線の被害は甚大にして――――」

「物資輸送の滞りが――――」


 リーザはため息をついた。話題にのぼるのはろくでもないことばかりだ。扉の向こうではさぞ重苦しい雰囲気が漂っているのだろう。


「敵国の陣は――――」

「魔術による攻撃も激化し――――」

「我が国の魔術師たちは――――」


 リーザは時々軍議の盗み聞きをする。こうでもしなければ正しい情報が手に入らない。手に入ったところで何も起こりはしないが、それでもリーザは知りたいと思うのだ。


 息を殺してかすかな音に集中した。


 最初はただの報告だった。しかし話はこじれていく。熱が入り始め、机を叩く音や椅子が倒れる音が響き、リーザは肩をすくめた。ここで冷静にいられる人間なんて誰もいない。


 リーザにだってわかる。この戦争の結末――――いずれ負けるのはこの国だ。


 戦況の悪化、食料も武器も底が見えている。この前は北の拠点が夜襲され要が奪われた。兵は疲弊し始め士気が下がっている。脱走兵の数も馬鹿にならない。敵は強大なラシュム帝国。盤上をひっくり返せるような要素は何一つない。


 リーザは両手の指を組んで祈るように目を閉じた。どうかすべてが上手くいきますようにと囁くが、それはあまりにも都合のいい願いだ。透き通るような青の瞳に憂いが浮かぶ。


「それでも、私は……」


 帰らなければならないのだ。何をしてでもあの男のところへ。


 そのためにリーザはすべてに耐えてきた。戦場に立つことも、魔力を奪われることもたくさんの傷を負うことも、リーザは文句一つ言わなかった。しくしく痛む古傷にだって気づかないふりをした。自分にできることなら何だって受け入れてきた。


「だって、アリスティが――――」


 力なく目を伏せる。彼の愛に応えるためにたった一つの約束を守りたいだけなのだ。


 リーザは扉に背を向け静かにもたれかかった。背骨の奥までひんやりとして思わず身震いした。指先の、少し硬くなった肌でトントンと二度叩く。これ以上聞いていたってしかたがない。どうしようもなく投げやりな気持ちになってリーザはふっと笑みを零した。くすくす、くすくす笑って、それからやっぱりやめようと両手を握りしめた。何もかも諦めるには少し早すぎる。


 リーザはまた足音を殺し、扉から離れた。石の廊下をまっすぐに進んで角を曲がる。


 このまま自室に帰るつもりだった。水を一口飲んだらすぐに眠るのだ。本当はアリスティドのホットミルクがいいけれどそんな嗜好品はここにないし、あれは彼がいれてくれるからいいのだ。木のカップのなか、白い液体がとろとろっとしていて美しい。ほんのり甘くて舌に残るすっきりとした酸味――――隠し味の正体をリーザはまだ知らない。


 リーザが頬を緩ませたその時――――目の前がふさがれた。リーザは足を止めざるをえなくて、その場で立ち止まった。


「こんな時間に、何用です」


 毅然とした声で問いかけた。普通だったらそうしなくてもよかったけれど、今目の前にいるのは五人の男、それも近衛兵だ。何かがおかしいと直感した。


「前を開けなさい」


 静かに、しかしはっきりと命じた。しかし兵たちは特別な反応をすることなく、むしろリーザを進ませまいと廊下の端まで固めていた。リーザは一歩踏み出すが兵たちが動かないのでその足をゆっくりと戻す。代わりに目の端をキッと吊り上げた。


「だから、開けなさいと――――」


 同じ言葉を言い切らないうちに真ん中の二人が動いた。おもむろにリーザに近づくとその両腕を取った。リーザはぎょっとして払いのけようとするがびくともしない。右足をあげて蹴ろうとするがそれも届かない。


 無礼者、とリーザは声を荒げた。私を誰だと思っているの、とも言う。兵は何も言わずにリーザの身体を引きずった。いとも簡単にそうするからリーザはびっくりしてしまって抵抗らしい抵抗もできなかった。


 そのまま廊下を歩かされ、今までに踏み入ったこのないような場所まで連れていかれた。ある部屋の前に着くと兵が扉を開けた。リーザの背がトンっと押される。足がもつれて、二、三歩前に歩いた。気づけばもう部屋の中でリーザがあっと声を上げるのより扉が閉まる方が早い。遅れて鍵の回る音がした。


「何よ、何をするの!」


 ノブを回してみるが、何かに引っかかってそれ以上回らない。何度か扉を叩いた。拳をぎゅっと握りこんでなるべく大きな音が鳴るように。けれど返事はなかった。


 リーザはぺたりと座り込んだ。部屋の中は恐ろしいほどしんとしていた。


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