第23話 管理人と魔女(1)
────ふと昔の夢を見た。
薄暗い図書館のテーブルを挟んで向かいにアリスティドが座っていた。どこか若く見える彼は教本を片手に哲学を説いている。リーザは足をぶらぶらとさせながら耳を傾けていた。
「何故、人に親切にする必要がある?」
唐突な質問に、リーザは首を傾げた。
「親切にすることは良いこと……だから?」
「まあ、そうだな」
アリスティドはこくりと頷き教本を閉じた。机の端に置くと代わりに紙を置いた。彼の動きは洗練されていて一つも無駄がない。細長い指が美しかった。
「では、人に親切にすると褒められるから、という答えは正しいか?」
リーザは素っ頓狂な声で「た、正しいか?」と繰り返した。
「そうだ。正しいか、正しくないか。お前はどう思う?」
彼は時々、単純なのに難しいことを聞く。リーザはすっかり困ってしまったが、彼は黙ったまま返事を待っているので何か言わなければと頭を悩ませた。足をぶらつかせるのをやめて視線をさまよわせた。
「ええと……そういう人もいると思うの。褒められるから親切にする人。悪くないよ、たぶん。だけど正しいか正しくないか、だよね」
そうだ、と短く答えた。
「どっちだろう……」
「どちらでもいい。早く決めろ。話が進まん」
「それじゃあ――――正しくない」
アリスティドは「そうか」と呟いた。
「何が正解かは人によるし、そもそも正解などないのかもしれない。だが少なくとも、今から話す人間はそれを正しくないと言った。善行に見返りを求めてはならず、また自身の罰を避けるために行ってもならない」
「……つまり?」
「損得勘定をしながらの善行は無意味、ということだな」
分かるような、分からないような――――リーザはとりあえず相槌を打った。それから考え込むように俯いた。こういう時のリーザはあまり理解していないと知っている彼は言葉を選びながらもう少しかみ砕いて説明してくれる。その気遣いが嬉しくてリーザは頬を緩ませた。
――――アリスティはね、本当はとても優しい人なの。リーザはそれを知ってる。
「……何をにやついているんだ。ちゃんと聞いているのか?」
「聞いてるもん!」
アリスティドは「どうだかな」と笑った。ふわりと崩れるような、優しい笑みだった。
リーザはぱちりと目を開けた。視界がぼやけるので何度か瞬きをするが、目に飛び込んでくるのは天井だけで、顔だけ横に向ければ窓の向こうは白み始めた空だった。
「そっか、夢だったんだ……」
シーツをぎゅっと掴みながら一人呟く。残っているのはほんの少しの幸福とたくさんの虚しさだった。
リーザはしばらく仰向けに寝転がったまま朝日が昇るのを待った。ぼんやりしているうちに夢の記憶が薄れていくがそれでもまだ鮮明に覚えている。
「本当に、馬鹿みたい……」
かすれる声で呟く。たぶんあの頃が一番楽しかったのだとリーザは思う。何も考えなくてよかった。ただ彼と過ごせる幸せな日々で、恋の苦しみも切なさも知らないままふわふわと浮かれていた。それがどれほど愚かなことだったのか今のリーザは嫌というほど知っている。
まだ外は薄暗いが重い頭を持ち上げリーザは上半身を起こした。それだけでもくたびれてしまってふっとため息をつく。片足ずつベッドの外に投げ出して靴を探した。
軽く身支度を終え鏡台の前に立ったときハンカチが置かれているのに気が付いた。飾り気のない、けれど上質な布で仕立てられたそれはリーザのものではない。
「あ……そうだ、忘れてた」
リーザは視線を逸らす。思わずドキリとしてしまった自分が恨めくてあてつけのように乱雑につかみ取った。
ハンカチはアリスティドのものだ。昨日やっとすすり泣きをやめたリーザが部屋を出ようとしたとき彼が黙ってよこしたのだ。涙の跡が残っているリーザへの気遣いだった。「そういうところが駄目なの」と言いたくて、けれど声が上ずってしまいそうだから何も言わずに受け取ってしまった。
受け取ったからには返さなくてはならない。しかし昨日の今日でまともに顔を合わせられるほどリーザは呑気ではないしふっきれてもいない。右手でハンカチを握りしめたまましばらく考えを巡らせた。
「誰かに頼んでもいい、けれど……」
言葉を切る。ハンカチの意味を邪推されたくはない。
「ああ、そういえば今日って一日神殿にいるはずよね……。なら今のうちに届ければ……メモでも残せば分かるはずだし」
ぶつぶつとひとり言を呟きながら櫛を手に取り、髪をするする梳いていく。絡んでしまった髪を優しく解きすべて肩の後ろに回し一つにまとめ上げる。最後に結び目を隠すようにリボンを結べば完成だ。メイほど手は込んでいないが外を出歩けるくらいにはなった。
「ちょっと緩いかなあ」
髪を触りながらぼやくがやり直す気にはなれない。鏡の前でくるりと回り、服に皺がついていないことを確認するとドアを開けた。途端に冷たい風が流れ込んできて、一瞬で温もりを奪っていった。
日も昇りきっていない朝は、まだ夜の気配を残している。キンと張り詰めるような空気にうっと息を呑んだ。風がびゅうびゅうと通り抜ける廊下は信じられないほど冷え込んでいて痛みすら感じる。ぷるぷる震え始める指先に息を吹きかけた。爪は青紫色だった。
廊下に人気はなかった。誰もがまどろんでいる時間だ、出歩いているのは兵士くらいのものだろう――――彼らのことを心底気の毒に思う。
リーザは背中を丸めながら速足で進んだ。時々小走りしてみたりもするが、顔に当たる風が冷たいのですぐにやめた。俯き加減にちらちく靴だけを見ながらずんずんと歩いた。浅く呼吸するが、自分の吐く息が真っ白でリーザは思わず笑ってしまう。何がおかしいのかは分からなかった。ただそうでもしていないと寒さで気が参りそうだ。
一人で笑っている間にも、早く済ませて帰りたい気持ちとあだあそこには行きたくない気持ちがせめぎあっていた。どちらかが勝つわけでもなく天秤はぐらぐらと頼りなく揺れ続けていた。それを「いつまでも情けない」と一蹴できるほどリーザは強くない。
迷いは足を止めさせるが痛いほどの寒さが進ませる。結局いつもと同じくらいの時間で図書館の前までたどり着いていた。いつもより大きく見える扉に尻込みしながらも深呼吸した。
「……よし」
ノックは必要ない。ここには今誰もいないのだ。
リーザはドアノブに指を絡ませた。そのまま手首をひねろうとして、しかし動けない。リーザは一度身を離した。少し考えるように俯いて、だが後戻りすることもできずにまたノブを握った。目をつむったまま勢いよく押し開ける。すぐにぱっと目を開いて思わず彼の背中を探した。そうしてしまう自分が愚かしかった。
もちろん彼はいなかった――――けれどそこには別の背中があった。
闇のように深い黒のドレスをまとった華奢な背中。腰まで伸びる雪より白い髪。その隙間から見えるほっそりとした首――――エヴァは物音を聞くと、勢いよく振り返った。ただ事ではないその動きにリーザはびくりと身体を揺らした。
「エヴァさん、今あの人は神殿に――――」
言いかけて、やめる。エヴァの視線はまるで別人のように鋭くて、心の臓まで凍り付いてしまいそうだった。棘のある花のようだと思ってやはり美しかったけれど、それは紛れもなく敵意であった。
「エヴァ、さん」
彼女の名を呟きながら足元に視線をやった。広げられた薄紙には青いインクで魔法陣が描かれていた。その意味が分かるくらいには、リーザは魔術を理解している。詠唱だけでは済まないほどの大魔術――――嫌な予感がした。
「エヴァさん、そこで何をしていたの」
彼女は答えなかった。代わりに取り繕うような笑みを浮かべた。歪んだ口元がいっそう不気味でリーザは身震いした。
「ねえ、エヴァさん! ……答えなさい。そこで何をしていたの」
責めるような強い口調だった。それでも答えない彼女にリーザは詰め寄ろうとした。大きく一歩踏み出して――――その時、背後で大きな物音がした。次いでガチャリと金具が回る音。リーザは背後を見る。少し開いていたはずの扉が一人でに閉じていた。
「……っ」
慌てて扉に駆け寄りノブを回すがびくともしない。リーザはさっと顔を青くした。
「……どうして閉じ込めるの? 私、説明してと言っただけなのに」
エヴァはくすくすと笑った。
「だって二人きりでお話したかったものですから。邪魔が入ると、ほら、煩わしいでしょう?」
血のように赤い瞳はじっとりとリーザを眺めている。リーザは負けじと見つめ返した。
「都合のいい場所なら、私がいくらでも用意してあげる。だから扉を開けて」
「それはできません。殿下に逃げられてしまったらわたくし、悲しくなってしまうもの」
「あなたがそういうことをするからよ」
「あら、怒ってらっしゃるの?」
エヴァがゆっくりと近づいてきた。コツコツとヒールの音が高らかに響き渡った。リーザは身を引くがすぐ後ろは扉で逃げ場がない。あっという間に距離を詰められる。恐怖をにじませるリーザを見て彼女は小首を傾げた。つられて白髪が揺れた。
「どうしてそのようなお顔をなさるのです、殿下。わたくしはあなたとお話したいだけですのに」
あと一歩分の距離まで詰められた。エヴァの細腕が伸びてきて頬に触れようかというその時、リーザはするりと抜け出した。奥の窓際まで走る。いつもそこにいるアリスティドはいない。冷や汗をにじませる。
「わたくし、殿下に興味がありますの」
エヴァは恍惚とした表情を浮かべた。
「あなたの身体ってとても不思議だわ。あなた自身はただの人間、なのに底の見えないほどの魔力……。どうなっているのかしら」
「私だって知らないよ、そんなの」
冷たく返すがエヴァは気分を害した様子もなく、むしろ呑気に笑っている。会話がぷつりと途切れ二人が視線を交わらせると、エヴァが静かに呟いた。
「その力が欲しい」
エヴァは一歩、足を踏み出した。
「それだけの魔力があれば、わたくしは神にでもなれる」
リーザは無意識にあとずさった。
「そんなことを考えても無駄よ。私の力は私に触れている人しか使えない。少しだって取り出せなかった」
「でもそれは、神殿の魔術師の話でしょう? わたくしは森の魔女。ことのついでとは言え試してみる価値はありますわ」
「ことのついで……?」
エヴァがぴくりと眉を動かす。リーザはそれを見逃さなかった。
「あなたの目的は何!?」
部屋中に響くような声で叫んだ。エヴァは一瞬動揺したが、ふふ、と愛らしく笑うと唇に指を当てた。
「それは秘密です――――寝首をかかれてはたまりませんからね。わたくしはそこまで愚かでも、傲慢でもありません」




