第24話 管理人と魔女(2)
間違いない、エヴァ・クワイエルは敵だ。
エヴァの身体から少しずつ魔力が溢れ出してきた。もう話すことはないと言わんばかりに無言の笑みを浮かべている。
リーザは身体を固くした。リーザには自分の身を守るすべがないのだ。慌てて視線を這わせるが武器になりそうなものすらなく、八方塞がりだ。
今のリーザにできることを必死に思い浮かべてみるが、何かあるはずもない。魔術で対抗する────? そんな考えが頭を過ぎったりもしたが、すぐに無理だと捨てた。エヴァは最高の名さえ相応しいほど強い魔術師で、魔術のほんの基礎をかじっただけのリーザでは相手になるはずもない。
恐ろしさから思わず足を引いたが、部屋を逃げ回ったところでエヴァが本気になればすぐに捕まるだろう。できるのはただ彼女を見据えることくらいだ。
その場で動けずにいると、エヴァが一歩、また一歩と近づいてきた。ただただ怖かった。けれど毅然と睨みつけた。なおも強気なリーザを見て彼女は優しく微笑んだ。
「大丈夫です、痛いことはいたしません……」
その微笑みは心からのものだと言わんばかりに優しげだ。
「さあ、その魔力をちょうだい」
「……私に触れたら許さないわ」
「まあ、冷たい」
エヴァはくすくすと笑いながら手を伸ばしてきた。その手から逃げるように後ずさるものの、背中が壁にトンと当たってそれ以上はどこにも行けない。
リーザは身体を縮こませ、両手をぎゅっと握りしめた。それでも視線はエヴァのその奥、扉の方だ。
「殿下、そんなに扉の方ばかり気にして、誰か来ることを期待していますの? もしそうなのでしたら無駄なことです。魔術の錠というのは魔術をもってしか解けません────あれは一等複雑なものにしてありますから、しばらくはこのまま2人きりです」
「やめて……」
「あらあら、泣きそうになって。そんな様子もお可愛らしいですけれど、わたくし、寂しいですわ」
「やめ……来ないで!」
エヴァの美しすぎる顔が迫ってくる。赤い瞳が怪しく光る。それでもリーザは目を逸らさなかった。そうすることだけが抵抗だった。口づけでもするような距離まで近づいて、もうすぐ唇がかすめるというところまできて、リーザは目を見張る――――。
同時に、扉の方で物音がした。
エヴァはすぐに身を離し勢いよく振り返った。彼女の背後からは光が差し込み、見覚えのある銀髪がたなびいていて、エヴァはすっと目を細めた。
「……塵芥でしかない魔力で、よくわたくしの錠を解きましたね」
「お見事」とエヴァは心からの賛辞を贈るが、息を切らしているアリスティドは自嘲気味に笑う。
「おかげで、このザマだがな……」
アリスティドが部屋に踏み込んできた。ゆったりとした歩みで二人に近づくが、エヴァは何も言わずリーザから離れた。
「アリスティ……!」
リーザを庇うように前に立ちふさがる彼はぜえぜえと浅く呼吸していた。首筋が見えるが、もともと白い肌から血の気が引いて病人のように青白い。彼の魔力は底をつきかけている。裾をぎゅっと掴むと彼は視線も合わせないまま「何でもない」とうそぶいた。
「それで、俺の城で何をしている?」
エヴァは白々しく首を傾げた。
「ディラック様こそ、昨晩から大神殿で儀式を執り行っていると聞いておりましたが、どうなさったの? ずいぶん早いお戻りだわ」
「ああ。そのことだが、たまたま、偶然、思いがけず早く終わってな。仕方ないから帰って来たわけだ」
「……なるほど、最初から罠でしたか。わたくしのことなど信じていなかったのですね」
言葉のわりには余裕のある涼やかな声だった。エヴァは腕を組むと続きを促すように視線を送った。アリスティドはそれに応えるように大きく息を吸ってから話し始める。それでも呼吸はほとんど整っていなかった。
「お前が隠そうが喋ろうが、一向にかまわない。目的なら分かり切っている。聞くだけ時間の無駄というものだ」
「あら、それは困りましたわね」
いけしゃあしゃあと言葉だけ困ってみせると頬に手を添えた。黒レースの手袋に覆われた薄い手のひらだった。
「あえてわたくしを近づかせ、罠にかけたところまでは良い出来です――――だけれどあなたに何ができるというの? 多少は魔術の心得があるようですが、ただの管理人には荷が重いのではなくて?」
「なめられたものだな。……俺に近づいたのは、俺が立場のわりに無害だと知っていたからか? それとも絆しやすそうだとでも?」
「まさか! あなたほど色香に惑わされない男はそういないわ。だって抱擁すら許されないだなんて初めてだったもの」
「あいにく俺には愛してもいない人間を抱きしめる趣味はないのでな」
息苦しそうにしながらも鼻で笑うことを忘れないあたり彼らしい。さて、と彼は呟いた。
「そろそろ話を戻そうか。森の魔女エヴァ・クワイエル。お前がここに来る目的など一つしかない――――宮廷への復讐だ」
エヴァの瞳がかすかに揺れるが、彼は言葉を止めはしない。
「お前たち一族は、かつて大神殿と仲違いをし関係を断ったと言われている。だが実際のところ一方的な追放でしかなかった。しかもその裏には宮廷の事情が絡んでいた。……なんてことはない、ただの男女の、くだらない話だ」
さすがに子供はまずかったのだろうな。アリスティドは小さく呟いた。
「大神殿から追放されたクワイエル家は、あらゆる名誉を失った。それでも魔術だけは捨てられず、一族は薄暗い森で生きるしかなかった。三百年経った今でもずっと。人々に疎まれ、恐れられ――――誰の所為かと言われれば、間違いなく宮廷だ。あれはあまりにも不当だった」
「……あら、同情してくださるの?」
「そうだな。せざるを得ない」
「それならば」エヴァが笑みを崩した。「わたくしの邪魔をしないで」
アリスティドはゆるくかぶりを振った。そして左手を少し後ろ、リーザの方に伸ばしてくる。その意味を知っているリーザはすぐに掴んだ。強く強く握りしめた。
「残念です、ディラック様。わたくし、あなたのことは嫌いではなかったのに」
すべて見ていたエヴァはぽつりと呟いた。感情はこもっていなかったけれど、それは嘘というより何かを押し殺しているような、そんな響きだった。アリスティドは意外だったのか少しだけ指の力が抜いた。
「光栄な話だが、他国と内通しているような人間に言われてもな」
「……勘がいいとは思っていたけれど、一体どこまで気づいているのかしら」
「さあな」
アリスティドは喉を鳴らした。
「とはいえ、俺もはなから疑っていたわけではない。それこそ、今日何も起こらなかったら、本当に、俺はお前を――――」
――――リーザの身体がぞくりとうずいた。悪寒が背筋を駆け、心臓がドクンと痛いほどに縮み上がった。かと思えばとたんに熱っぽくなる。血がぐつぐつと煮えたぎりそうなほど熱くてリーザはうっと嗚咽を漏らした。
知っている。この感覚の正体をリーザは知っている。だから考えるよりも早く身体が動いていた。
「っ!」
アリスティドの手をはねのけると体当たりで彼を突き飛ばした。なりふり構っていられなかった。立っているのもやっとの身体はあっけなく沈んだ。勢いあまってリーザも一緒に倒れこむ。
一拍遅れて、エヴァが短く詠唱した。部屋中に立ち込めるほどの魔力は一瞬で形になりリーザたちを襲う。黒々としたもやがリーザの左腕をわずかにかすった。
「――――あ!」
二人して倒れこんだのをアリスティドが受け止めた。片手でリーザの身体を抱きしめ、もう片方をエヴァの方に伸ばす。
魔力が吸い上げられて眩暈がする。エヴァとアリスティドは同時に攻撃した。お互いに打ち消しあって、それを見届けるより早く詠唱を始める。エヴァは魔法陣のもとに近づこうとするがアリスティドがさせない。エヴァは顔を歪めた。悪魔のようだった。
「だ、め……」
薄れる意識のなか、リーザはうわ言のように呟いた。ああ、駄目。アリスティの大切な本が傷ついてしまう――――。
遠くで笛の音が鋭く響いた。同時に足音が激しく響いた。騒ぎを聞きつけたのかもともと近くで控えていたのか、衛兵たちが次々に駆けつける。エヴァは気を取られて一瞬意識を背後にやる。それを見逃すほどアリスティドは甘くない。
「――――!」
ほんの一瞬が勝敗を分けた。エヴァは数度痙攣すると瞳孔を開いたまま膝をつき崩れ落ちる。とさっと倒れ伏し、床に白髪が広る。
彼女の敗北を目に焼き付けたリーザはぱくぱくと唇を動かした。どこにも力が入らない。瞼が重くて目を開けていることすら精いっぱいだ。
「おい、大丈夫か⁉」
アリスティドの切羽詰まった声が耳をキンとさせる。
「しっかりしろ、目を閉じるな!」
左腕を掴まれる。先ほどから痺れるような痛みがあるが、どうやら彼女の魔術が今もなお生きているらしい。
「くそ……古典呪術か!」
アリスティドは舌打ちするとすぐに指示を飛ばし始めた。
「手の空いているものは水を持ってきてくれ! ああ、それから神殿に早馬を出せ!」
また人の出入りが激しくなる。リーザは朦朧とする中アリスティドの手首を弱々しく掴んだ。
「ごめんね……私、こんなことしかできないの。アリスティみたいに強くないから……」
ごめんね、ごめんね、と同じ言葉を繰り返すたび、目の前が真っ白に塗りつぶされてゆく。アリスティドが何かを必死に叫んでいるがもうほとんど聞こえなくて、「分からないよ」と首を振った。それすら上手くできなくて、へらりと笑った。そうしてリーザはまどろむように意識を手放した。




