第9話 覚醒
指先が、柚葉の腕に触れた瞬間。
目の前が、白く染まった。
周囲の音が、遠く霞んでいく。案内の男の声も、風の音も、何も聞こえなくなった。
あるのはただ、指先の感覚だけ。
柚葉の腕の中に、何か歪んだものがある。折れた骨、破れた血管、内側から溢れ出ようとする血。それらが、蓮の意識の中で、はっきりと像を結んでいた。まるで、目を閉じたまま、柚葉の体の内側を透かし見ているようだった。
(これを――)
考えるより先に、体が動いていた。
蓮は、その歪んだものに向かって、手を伸ばすように――いや、手を伸ばすというより、引き寄せるように、何かを働かせた。
瞬間、指先から何かが吸い出されていく感覚があった。それは、猫に触れたときよりも、比べものにならないほど強く、そして重い。
胸の奥が、軋むように痛んだ。息が詰まる。目の奥が、じん、と熱くなる。
手を離す、という選択肢は、蓮の中になかった。
柚葉を失うことに比べれば、こんな痛みなど、どうでもよかった。
どれくらいの時間が経ったのか、蓮には分からなかった。数秒だったのか、数分だったのか。
ふと、目の前の景色が、色を取り戻した。
柚葉の呼吸が、変わっていた。浅く苦しげだったものが、次第に落ち着いていく。頭からの出血も、いつの間にか止まっていた。不自然に曲がっていた腕も、少しだけ位置が戻っているように見えた。
「……柚葉?」
蓮は震える声で呼びかけた。
しばらくして、柚葉の瞼が、ゆっくりと動いた。
「……ん」
小さな呻き声とともに、柚葉が目を開けた。焦点の合わない目で、しばらく宙を見つめていたが、やがて蓮の顔を捉えた。
「……蓮?」
「柚葉! 大丈夫か!」
蓮は思わず、柚葉の体に覆いかぶさるようにして顔を覗き込んだ。柚葉は、ぼんやりとした表情のまま、小さく頷いた。
「なんか……頭、痛い。あ、でも……大丈夫、かも」
その言葉に、蓮の全身から力が抜けた。安堵のあまり、目の奥が熱くなる。
「良かった……本当に、良かった」
声が、震えていた。
案内の男が、呆然とした様子で二人を見ていた。
「……今、何をした」
「分からない。でも、柚葉が」
「あれだけの傷が、これほど早く……」
男は言葉を失ったように、柚葉の腕をもう一度確認した。折れていたはずの骨は、まだ完全にくっついているわけではなさそうだったが、出血は完全に止まり、意識も戻っている。とても、素人が応急手当てをしただけとは思えない回復ぶりだった。
「お前、何をしたんだ」
男の声には、驚きと、それ以上に何か別の色が混じっていた。蓮は、その視線から目を逸らした。
「分からないんです。本当に。気づいたら、柚葉が……」
説明のしようがなかった。自分でも、何が起きたのか、正確には分かっていなかった。ただ、柚葉の中にあった何かを、外へ引き出したような感覚だけは残っていた。
男はしばらく蓮の顔を見つめていたが、やがて首を振った。
「……今は、それどころじゃない。下山するぞ。柚葉といったか、まだ動けるか」
「たぶん……」
柚葉は蓮の手を借りて、ゆっくりと体を起こした。まだ足元がおぼつかない様子だったが、歩けないほどではなかった。
「肩を貸してくれ」
蓮は柚葉の腕を自分の肩に回し、支えながら歩き始めた。柚葉の体温が、いつもより低く感じられた。それでも、確かに温かかった。
山道を下りながら、蓮の胸の中には、まだ重い感覚が残っていた。柚葉から取り除いた「何か」が、自分の中に留まっているような、そんな感覚だった。
だが、そんなことよりも今は、柚葉が助かったことのほうが、ずっと大切だった。
しばらく黙って歩いていると、柚葉が小さな声で言った。
「……蓮、さっき、何かしてくれたんだよね」
「うん」
「ありがとう」
蓮は胸がいっぱいになった。
「礼を言うのは、俺のほうだ。柚葉が、無事で良かった」
「私も、蓮が無事で良かったよ」
柚葉は、少し笑いながらそう言った。その笑顔は、いつもと変わらないように見えた。しかし、目の奥に、ほんの一瞬、何かを探るような色がよぎった。蓮は、それに気づかなかった。
案内の男が警告するように言った。
「今日のことは、誰にも言うな」
「郷の外でも、中でも。……お前の力のことは、簡単に口にしないほうがいい」
「なんでですか」
「理由は、お前が一番よく知っているはずだ。今、自分の体に何が起きたのか」
蓮は答えられなかった。男は、それ以上何も言わず、山を下り始めた。
麓の町に着くと、男は「案内はここまでだ」といい、雑踏に紛れるようにして歩き去っていった。
蓮はすぐに、柚葉を近くの病院に連れて行った。頭を打っている以上、放っておくわけにはいかない。
診察室で、若い医師が柚葉の腕を診ながら、何度も首をかしげた。
「頭と腕を打ったんだね。レントゲンを見る限り、左腕は骨折している。ただ、骨のずれはそれほど大きくないね」
「……骨折してるんですか?」
「うん。だけど、少し不思議だな。骨折したばかりにしては、ずいぶん治りかけているように見える」
「それって、どういうことですか?」
「普通なら、こんなに早く骨がくっつくことはないんだけどね。まだ完全に治っているわけじゃないから、しばらく固定して、安静にしておこう」
「山で転んだんです。本人も、最初はかなり痛がっていたんですけど……」
蓮は、病院に入る前に打ち合わせていた通りの説明をした。柚葉も、少し痛そうな顔をしながら頷いた。
「頭のほうも、出血の割に傷は浅いね。念のため今夜は入院で様子を見るけど、たぶん明日には帰れると思う」
医師はそう言いながらも、納得しきれない様子でカルテに何かを書き込んでいた。
待合室で、蓮は柚葉の両親に連絡を入れた。事情を説明すると、電話越しに母親の慌てた声が響いた。一時間ほどで、柚葉の両親が病院に駆けつけてきた。
「柚葉、大丈夫なの!?」
「うん、平気。ちょっと転んだだけだから」
柚葉は努めて明るく答えていたが、両親の心配そうな顔は変わらなかった。蓮は、その様子を少し離れたところから見ていた。自分のせいで、柚葉をこんな目に遭わせてしまったという思いが、胸の奥に重く沈んでいた。
「蓮くん、柚葉についててくれてありがとう」
柚葉の母親が、蓮にそう声をかけた。感謝の言葉が、かえって蓮の胸を締め付けた。
「……すみません。俺が、無理に連れて行ったから」
「そんなこと言わないで。柚葉が自分で決めたことでしょう」
柚葉の母親は、優しくそう言った。蓮はそれ以上何も言えなかった。
結局、柚葉はその夜、病院に一泊することになった。蓮は付き添いを申し出たが、柚葉の両親に「もう遅いから」と帰され、一人で家路についた。
夜道を歩きながら、蓮は昼間の出来事を何度も思い返していた。
自分には、確かに力があった。
猫を助けたときよりもずっと確かな実感として感じられた。柚葉を死の淵から引き戻すことができたのは紛れもない事実だ。
これで、父を助ける方法も、見つかるかもしれない。
そんな希望が、蓮の胸に芽生え始めていた。




