第10話 異変
翌日の午後、蓮は学校を早退して病院に向かった。柚葉は、思っていたよりずっと元気そうな顔をして、病室のベッドに座っていた。
「お、来た」
「大丈夫か」
「もう平気。先生も、今日には帰っていいって」
柚葉はそう言って、包帯の巻かれた腕を軽く持ち上げてみせた。それから間もなく、医師の診察と退院の手続きが済んだ。柚葉の両親が車で迎えに来ると言っていたが、柚葉が「蓮と少し歩きたい」と言い張り、結局、二人で病院を出ることになった。
病院を出て、二人並んで歩き出してすぐのことだった。
蓮は、少し後ろに下がって歩いていた。柚葉の横顔を見ながら、(本当に、大丈夫なのか)と、声には出さずに考えていた。
「大丈夫だって、さっきから何度も思ってるでしょ」
柚葉は、振り返りもせずにそう言った。
「……え?」
「なんとなく、分かるの。蓮が何考えてるか」
「今、声出してないのに」
「うん。でも分かる。……変だよね、自分でも」
柚葉は自分の手のひらを、不思議そうに見つめた。何かを確かめるように、指を一本ずつ折り曲げていく。
「柚葉」
「ん?」
「怖くないか。そういうの」
蓮の声は、我知らず硬くなっていた。柚葉はしばらく黙っていたが、やがて、ふっと笑った。
「怖くはないかな。だって、死ぬかもしれなかったところを助けてもらったんだから、それと比べたらたいしたことないよ。」
「……そんな簡単に」
「簡単には考えてないよ。ただ、蓮のおかげで生きてるのは事実だし。だったら、これくらい、引き受けてもいいかなって思っただけ」
柚葉は、いつもと変わらない調子でそう言った。その軽さに、蓮の気持ちも引きずられて軽くなる。
「……そうかもな」
蓮は、それ以上追求しなかった。柚葉が気にしていないなら、それでいいか。
角を曲がったところで、柚葉の家の前に着いた。
「じゃあ、また明日」
「うん。……ちゃんと休めよ」
「はいはい」
柚葉は軽く手を振って、玄関の中に消えていった。その背中を見送ってから、蓮は自分の家に向かった。
一人になると、さっきの柚葉の言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
――なんとなく、分かるの。
声に出していないことを、当てられた。あれは、偶然や勘とは思えない。
蓮は、歩きながら自分の手のひらを見た。握って、開いて、また握る。柚葉の腕に触れたあの瞬間、確かに何かが自分の中に流れ込んできた。でも今はもう、それがどこにあるのか分からない。
――明日になれば、元に戻っているかもしれない。
根拠のない考えが、頭に浮かんだ。柚葉のことも、自分のことも、今は確かめる勇気が出なかった。だから蓮は、不安な気持ちにそっと蓋をして、歩き続けた。
家に着く頃には、空はすっかり藍色に染まっていた。
居間の椅子に、灰斗が座っていた。前より頬がこけ、顔色も優れない。窓のカーテンは、いつものように分厚く閉ざされている。
「……おかえり、蓮」
「ただいま」
蓮は玄関で靴を脱ぎながら、どう切り出すべきか迷っていた。
柚葉に起きたことは、まだ話せない。話せば、灰斗はきっと自分を責めるだろう。
でも、郷まで行った本来の目的――血の吸い方を教わることについては、報告しないわけにいかなかい。
「父さん。結局、血の吸い方は、教わらずじまいだったよ」
「そうか」
「途中で、事故があって……それどころじゃなくなったんだ」
灰斗の眉が、かすかに動いた。
「事故?」
「柚葉が、ちょっと怪我をして」
「……大きな怪我じゃなかったんだろうな」
灰斗は、そこで何かを確かめるように、蓮の顔をじっと見た。
「……お前は?」
「俺?」
「怪我は」
「ないよ」
「そうか」
短いやり取りだったが、探るような目つきで見られた。
灰斗は、それから少しの間黙っていたが、ためらいがちに口を開いた。
「郷では、何か変わったことは――」
そこで言葉を止めた。
「……いや。何でもない。無理に、また行かなくてもいい。焦ることはない」
「うん」
他には何も聞かれなかった。蓮も、あえて聞き返さなかった。
自分の部屋に戻ってから、蓮は今日一日の出来事を、もう一度頭の中で整理した。
柚葉に何かが起きている。自分の中にも、何かが残っている。そして、灰斗の体は、確実に弱っている。
窓の外に目をやると、闇が少しずつ濃くなっていた。カーテンを閉めようと伸ばした手が、途中で止まる。
結局、まだ何も片付いていない。
それでも蓮は、明日になれば何かが変わるかもしれないと、自分に言い聞かせた。
(第一部・完)




