第11話 父の異物
柚葉が退院してから、一週間が経っていた。
学校の生活は、驚くほど普段通りに戻っていた。柚葉は、ちょっとした怪我で数日入院しただけの生徒として扱われ、周囲もすぐにそのことを忘れていった。腕の包帯も取れ、傷跡すら残っていない。
しかし、あの日以降、柚葉に対して違和感を感じることが出はじめた。
柚葉は、時々、蓮が声に出していないことに反応する。授業中にふと視線を向けると、柚葉がこちらを見ていて、口には出さずに「大丈夫だよ」とでも言うように微笑む。まるで、蓮の考えていることが、手に取るように分かっているかのようだった。柚葉自身は、そのことを気にしている素振りを見せない。
「今日、部活終わったら、一緒に帰ろうよ」
昼休み、柚葉がそう言って、蓮の隣に腰を下ろした。
「……いいけど。なんか、機嫌いいな」
「そう?普通だよ」
柚葉は笑いながら、弁当箱の蓋を開けた。その仕草に不自然なところは何もない。最近は、より蓮との距離が近くなったように振る舞う。そんな柚葉に引っかかりを覚えていた。
でも、今の蓮にはもっと気がかりなことがあった。
その日の夕食の席で、蓮は改めてそれを意識した。
灰斗は、郷から帰った直後よりも、心なしか頬がこけて見えた。あの日は椅子に座って蓮を迎えられるくらいには持ち直していたのに、この一週間で、また少しずつ削れていくようだった。箸を動かす手も、途中でふと止まる。小さく息をつき、眉間にかすかな皺を寄せる。それはほんの一瞬のことで、すぐにまた何事もなかったように箸を動かし始めたが、蓮はその一瞬を見逃さなかった。
視線を上げると、母の沙奈が、灰斗の横顔をじっと見ていた。何も言わない。ただ、静かに見ている。その眼差しには、驚きも心配も、表には出ていない。まるで、それが今に始まったことではないというように。
(母さんは、知ってるのか)
蓮は、二人の間に流れる、言葉にならない空気を感じ取った。何かが、両親の間だけで共有されている。自分だけが、蚊帳の外に置かれている。
その考えが、蓮の背中を押した。
「父さん」
「ん?」
「ちょっと、手、貸してくれる?」
灰斗は不思議そうな顔をしたが、拒みはしなかった。差し出された手を、蓮はそっと両手で包み込んだ。
目を閉じる。柚葉の時と同じように、意識を指先に集中させる。
最初は、何も感じなかった。ただ、灰斗の体温だけが伝わってくる。やがて、集中を深めていくうちに、蓮の意識の中に、何かの輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。
(これは……)
柚葉の時とは違う。あの時感じたのは、折れた骨や破れた血管といった、傷ついた「体の一部」だった。境界がはっきりしていた。ここが悪い場所だと、迷わず分かった。
だが、灰斗の中にあるものには境界がない。
どこまでが父の体で、どこからがその「何か」なのか、蓮にはうまく判別できなかった。それなのに、そこにあるものだけは、はっきりと異質だった。柚葉の傷には、壊れた場所があった。父の中にあるものには、「壊れている」という感覚がない。ただ、そこにありすぎる。蓮には、そんなふうに感じられた。
病原体でも、毒でもない。もっと大きくて、もっと重い。まるで、体の内側に、体そのものと同じくらいの質量を持つ何かが、押し込められているようだった。異物、というよりほかに、言葉が見つからなかった。
(これを、抜けば……)
蓮は、その塊に向かって、意識を伸ばそうとした。柚葉にしたのと同じように、引き寄せ、吸い出す。そうすれば、父は少しでも楽になるかもしれない。
意識を伸ばした瞬間、あの日と同じ感覚が体を駆け抜けた。胸の奥が、軋むように痛んだ。息が詰まる。目の奥が、じん、と熱くなる。柚葉の時よりも、もっと重く、もっと強い力に引っ張られる感覚だった。
それでも、蓮は手を離さなかった。
指先が、灰斗の異物に触れかけた、その瞬間だった。
「――やめろ」
鋭い声とともに、灰斗の手が、蓮の手を強く振り払った。
「父さん?」
驚いて目を開けると、灰斗の顔は、蓮が今まで見たことのないほど強張っていた。額に、うっすらと汗が滲んでいる。
「二度と、それをするな」
「でも、父さんの中に、何かあるんだ。病気とか、そういうのじゃなくて……もっと、大きくて重いものが」
「知っている」
灰斗の声は、低く、抑えつけるように震えていた。
「知っているんだ、蓮。それは、お前が思っているようなものじゃない」
「なんで、知ってるんだよ」
蓮は、思わず聞き返した。
「俺が触っただけで、分かったのか?それとも……父さんは、最初から知ってたのか?」
灰斗は答えず、ただ、視線を逸らしただけだった。
「じゃあ、何なんだよ!あれを抜けば、父さんは楽になるはずだ。俺には、それができる」
「できるからといって、やっていいわけじゃない」
灰斗は、そう言ったきり、口をつぐんだ。蓮は、納得できなかった。目の前に、父を救う手段があるかもしれないのに、なぜ止められなければならないのか。
「父さん、教えてくれよ。あれは、一体――」
「今は、話せない…頼むから、今は、それ以上聞かないでくれ」
その声があまりに弱々しく、蓮はそれ以上、何も言えなくなった。
その夜、蓮は自分の部屋のベッドに横たわりながら、灰斗の中にあったものの感触を、何度も思い返していた。
柚葉に触れたときと、父に触れかけたとき。指先に走った感覚そのものは、同じだった。しかし、その先は違う。柚葉のときは、最後まで引き寄せ、吸い出した。父のときは、触れる寸前で手を振り払われた。何も起きてはいない。
それなのに――。
なぜか、灰斗に触れかけたときの感覚だけが、まだ指先に残っている。何かが始まりかけて、途中で断ち切られた感触だけが、消えてくれなかった。
蓮は無意識に、自分の指先を握り込んだ。
そこには、何もないはず。でも、確かに何かが引っかかっている気がした。
あれは一体、何だったのか。そして、なぜ灰斗は、あれほどまでに取り乱したのか。
蓮は、答えを出せないまま、目を閉じた。




