第12話 父の告白
次の日の夜、蓮が自室で考え込んでいると、控えめにドアがノックされた。
「入っていいか」
灰斗の声だった。蓮が答える前に、ドアがゆっくりと開いた。灰斗の後ろには、沙奈の姿もみえる。二人して蓮の部屋に来るのは、記憶にある限り初めてのことだ。
灰斗の顔色は、昨日よりもさらに悪かった。あの剣幕で蓮の手を振り払った反動が、まだ抜けきっていないのかもしれない。歩みもどこか重く、沙奈がその背に、そっと手を添えていた。
二人とも、しばらく何も言わない。灰斗は、部屋の中を見回すでもなく、ただ視線を落としたまま、たたずんでいる。沙奈は、そんな灰斗の横で、じっと様子をうかがっていた。
蓮は、ベッドの上で身を固くしたまま、二人の様子を見守るしかなかった。
やがて、灰斗が小さく息を吐いてから話し始めた。
「……話す、って決めたよ」
そう言うと、蓮のベッドの脇にある椅子に、ゆっくりと、そして力なく腰を下ろした。座るというより、崩れ落ちるのに近い動きだった。沙奈は、その傍らに立ったまま、灰斗の肩にそっと手を置いている。
「まず、謝らせてくれ。今まで黙っていたことを」
灰斗は、しばらく俯いていた。何度か口を開きかけては、言葉を飲み込んだ。
「昨日、お前が触れたもの――あれは、俺自身の力だ。吸血鬼としての、本来の力そのものだよ」
蓮は、息を呑んだ。
「病気じゃ、なかったのか」
「病気じゃない。異物というのも、少し違う。強いて言うなら……俺自身の力が、俺の中で制御を失いかけているだけだ」
灰斗は、淡々と続けた。
「蓮。お前が、血を吸わずに生きてこられたのは、お前が特別ひ弱だったからでも、才能がなかったからでもない」
「……え?」
「普通の食事だけでも、生きることはできる。だが、吸血鬼としての力――治癒力や、夜目、感覚の鋭さ。ああいうものを保つには、血が要る。長く飲まなければ、少しずつ衰えていく。それは、お前も同じはずだった」
「じゃあ、俺は……力がないんじゃなくて、血を飲んでこなかっただけなのか」
「そうだ。だが理由は、それだけじゃない」
灰斗は、一度言葉を切った。
「俺が、今も血を飲んでるのは知ってるな」
「そんなの、今さら言われなくても」
物心つく前から、見てきた光景だった。朝のテーブルで、父が赤い液体の入ったコップを静かに傾ける。それが当たり前の朝だった。
「知らないのは、どこから来てるか、だろう。あれは、郷から密かに分けてもらっているものだ」
「密かに、って」
「普通の供給ルートとは違う、ということだ。あれで俺は、自分の力を保ってきた。そして、そこで補った力の多くを、お前に分け与え続けてきた。」
「俺に?」
「そうだ。お前が血を飲まなくても、生きていけるように。お前が血を吸って得るはずの分を、俺が肩代わりしてきたんだ。お前が生まれてから、ずっと」
蓮は言葉を失った。物心ついたときから、血を飲まなくても生きてこられた。それが当たり前だと思っていた。父が身を削り続けた結果だったなんて、考えたこともなかった。
「そんなこと……できるのか」
「飲んで、補って、分けて、また減る。それを繰り返してきた。ここ最近、お前に渡す分がどんどん増えて――補給が、追いつかなくなってきていたんだ」
「……待てよ。それなら、俺だって血を飲もうと思えば、飲めたってことか?」
「いや」
灰斗は、首を振った。
「牙は、渇望から生まれる。血を求める本能が強くなったときに初めて、体がそれに応えて牙を作る。俺が肩代わりしてきたことで、お前は渇望そのものを感じる必要はなかった。だから――お前の牙は、まだ一度も、生えたことがない」
蓮は、思わず自分の口の中を、舌先で確かめた。そこには、人間と変わらない、ただの歯しかなかった。
「吸いたくても、俺には、吸えなかったってことか」
「そういうことになる」
「じゃあ、父さんの中にあったあれは……」
「俺自身の、吸血鬼としての力だ。長く分け与え続けて、俺自身が弱りすぎた。……力は、弱った者ほど、制御できなくなる。本来なら自分の内側で大人しくしているはずのものが、抑えが利かなくなって、暴れているだけだ」
「暴れてる……?」
「ああ。だから危険なんだ。お前があれに触れて抜こうとすれば、抑えの外れた力が、そのまま外に溢れ出す。今の俺には、それを抑え直す力すら、もう残っていない」
「なんで、そこまで……」
「俺は、吸血鬼としての本能がどういうものか、身をもって知っている」
灰斗は、一度言葉を切った。
「血への渇望は、我慢すればいつか収まるようなものじゃない。俺自身、何度か、我を忘れかけた。誰かを傷つける寸前までいったこともある」
蓮は、息を詰めた。灰斗の口から、そんな話を聞くのは初めてだった。
「お前がもし同じ本能を抱えて育っていたら……柚葉くんのそばにいることさえ、危うかったかもしれない。渇望に飲まれて、大切な誰かを傷つけてしまうかもしれない。それが、俺には何よりも恐ろしかった」
「そんな…」
「だから、俺がすべて引き受ければ、お前はそうならずに済む。俺と同じ思いをさせたくなかった」
灰斗の目は、まっすぐに蓮を見ていた。その目には、後悔の色はなかった。
蓮は、隣に立つ沙奈を見上げた。
「母さんは、知ってたの」
「うん」
沙奈は、短くそう答えた。
「知ってて、黙ってたのか」
「灰斗さんが、そう決めたから」
その言葉に、蓮の中で、何かがせり上がってきた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよく分からなかった。
「俺には、言ってくれても良かったじゃないか」
「言えるはずがないだろう」
灰斗の声が、少しだけ強くなった。
「お前が、それを知って、自分のせいだと思い詰めるのが分かっていたからだ。今だって、そうしているだろう」
図星だった。何も言い返せなかった。
「だから、頼む。あれには、二度と触れないでくれ。今の俺の体では、それに耐えられない」
「……分かった」
そう答えるしかなかった。
両親が部屋を出て行った後、蓮は一人、ベッドに座り込んだまま、動けなかった。
父は、自分のために、ずっと苦しんできた。母は、それを知りながら、黙って支え続けてきた。ずっと二人だけで、この重荷を分け合ってきた。自分だけが、何も知らされないまま、守られていた。
それが分かったからといって、嬉しくなどなかった。
蓮は、膝の上で手を握りしめた。
ありがとう、と言えばいいのかもしれない。 でも、今はそんな言葉が出てこなかった。
父には、もう触れるなと言われた。
本当に、自分にできることは何もないのだろうか。




