第13話 もう一つの答え
灰斗の告白を聞いてから、蓮の中には、答えの出ない問いがずっとわだかまっていた。
学校でも、授業に身が入らなかった。ノートを開いたまま、気づけばシャープペンシルを持つ手が止まっている。
数学の時間には、名前を呼ばれたのに気づかなかった。
「黒瀬。黒瀬蓮」
「は、はい」
「問三。前に出て、解いてみなさい」
黒板を見ても、どの問題のことなのか分からなかった。隣の席の生徒が、無言で教科書の該当箇所を指でとんとんと叩いている。蓮は礼を言う余裕もなく立ち上がり、チョークを持ったまま、しばらく黒板の前で固まっていた。
「分からないなら、そう言いなさい」
結局、席に戻された。
昼休みには、友人たちが、蓮の机の周りに集まってきた。
「このところ、ぼーっとしてるよな」
「寝不足?」
「……そんなとこ」
曖昧に笑って、蓮は弁当の蓋を開けた。味がしなかった。誰かが話していた昨夜のテレビの話も、半分も耳に入ってこなかった。
廊下で柚葉とすれ違ったとき、柚葉は何も言わず、ただ一度だけ蓮の顔を見て、小さく頷いた。口に出していなくても、何かが伝わっているのだろう。蓮はそれに気づきながら、目を合わせられなかった。
終礼のチャイムが鳴ったのにも気づかなかった。教室が騒がしくなり、周りの生徒が立ち上がって帰り支度を始めても、蓮は座ったままだった。
「黒瀬、帰らないの?」
クラスメートに怪訝な顔で声をかけられて、ようやく我に返った。
頭の中では、いつも同じ堂々巡りが繰り返されていた。
父は、確実に弱っている。あの日、蓮の手を振り払ったときの声。額に滲んでいた汗。あれは、演技でも大げさな反応でもなかった。
しかし、父は「二度と触れるな」と言った。あの異物に触れれば、抑えの外れた力が溢れ出し、父自身が耐えられない。そう言われたことを理解はした。でも、目の前に父を救えるかもしれない手段があるのに、指をくわえて見ているしかないという状況が、蓮にはどうしても納得できなかった。
助けたいのに、助け方を封じられている。
夕食の席で、灰斗がふと箸を置き、ひそかにため息をつく仕草を見るたびに、蓮の胸には、行き場のない焦りが募っていった。
答えの糸口が見えたのは、ある夜、ベッドに横たわりながら、これまでの記憶を辿っていたときだった。
柚葉のときは、折れた骨や裂けた血管だった。傷の輪郭が、はっきりと分かった。父の中にあったものは、それとはまるで違った。境界もなく、ただそこにありすぎるだけの、得体の知れない何か。
なのに、指先から胸の奥へ伝わってきた感覚だけは、よく似ていた。あの軋むような痛みと、詰まる息と、目の奥の熱さ。
怪我を治したから、苦しくなったのだと思っていた。でも、父は怪我をしていたわけではない。それなのに、同じ感覚が蓮を襲った。
あの苦しさは何だったのだろう。
単なる力の反動、というだけでは片付けられない気がした。
蓮は、自分の胸に手を当てた。あの熱さは、苦しさというより、何かが、内側から湧き出てくる感覚に近かった。
父は言っていた。「渇望が、牙を呼び覚ます」と。
では、蓮が力を使い続けることで、いつか自分自身の中に、父に頼らなくても保てるだけの力が育つのではないか。
試してみよう。
ただ、誰に試すかは、簡単には決められなかった。
人に試すのは怖かった。柚葉のときに何が起きたのか、本当のところはまだ分かっていない。あれから柚葉には、確かに何かが起きている。他の誰かにも、同じことが起きたら――そう考えると、安易に人へ手を伸ばす気にはなれなかった。
何をするか、明確に決めないまま、蓮は週末の朝、外へ出た。
近所の公園で、足を引きずって歩く野良猫を見つけた。踏切の近くでよく見かける、片耳の欠けた猫だった。近づいてしゃがみ込むと、猫は警戒しながらも、逃げようとはしなかった。
(もし、何も起こらなかったら)
そのときは、この仮説を捨てればいい。そう自分に言い聞かせながら、蓮は猫に手を伸ばした。
指先が猫の体に触れた瞬間、なぜか、簡単には手を引けなくなった。
意識を指先に集中させると、すぐに、小さな異物の感触があった。骨の一部に、古い損傷がある。
引き寄せ、吸い出す。
柚葉のときほどではないが、確かにあの感覚が体を走った。胸の奥が軋み、目の奥が熱くなる。猫は一瞬びくりと体を震わせたが、すぐに、足取りを確かめるように、そろそろと歩き始めた。引きずっていた足が、もう地面をしっかりと踏んでいた。
良かった。
猫は、確かに元気になった。
だが蓮は、猫の頭を軽く撫でようとした手のひらに、ふと違和感を覚えた。何かが、そこに残っているような感触。猫に触れる前にはなかった、かすかな重さだった。
気のせいだろうか。蓮は、その手を、反対側の手で握り込んだ。
しばらくその場に座り込んだまま、自分の体の変化を確かめる。違う。指先の感覚が、いつもよりわずかに鋭くなっている気がする。
その日の夜、家までの帰り道、蓮はふと気づいた。普通より夜目が利くとはいえ、歩きにくかった街灯の少ない路地に差しかかっても、気にせず歩けている。いつもなら億劫だった、家の前の急な階段も、今日は驚くほど軽く上がれた。
(これは……)
全身の感覚が、いつもとは違っていた。
家に帰ってから、蓮は自分の部屋で、一人静かに考えをまとめた。
この力を、これからも使い続ける。困っている誰かを助けるたびに、自分の中の何かが、少しずつ育っていく。
それが本当なら、いつか自分は、父の助けを借りなくても、自分の足で立っていられるようになるはずだ。
父を治すのではない。父が、もう自分を犠牲にしなくていいようにする。
蓮は、拳を握りしめた。
明日から、もっと試してみよう。




