第14話 静かな回復、そして違和感
それから蓮は、少しずつこの力を使うようになった。
最初は、触れるたびに何が起きるのか分からなかった。どこに意識を向ければいいのかも曖昧で、何も起こらないこともあった。体育館裏でうずくまっていた鳩に触れたときは、しばらく何の感触もなく、諦めかけたところで、ようやく指先に小さな引っかかりを見つけた。
何度か繰り返すうちに、少しずつ感覚が分かってきた。
痛みそのものではない。その奥にある、身体の中で本来とは違う形になっているもの。そこに意識を集中すると、指先に引っかかるような感触が生まれる。それを引けばいい。そうすると、胸の奥が軋んで、何かが自分の中へ流れ込んでくる。
以前ほど苦しくはなかった。むしろ、使うほどに、その感覚は蓮の身体になじんでいった。
公園ですれ違う怪我をした猫、道端でうずくまっていた小さな野良犬。相手を選ばず、機会があれば、蓮はさりげなくその力を使うようになっていった。
人に試したのは、それから少し経ってからだった。
部活終わりの廊下で、階段を踏み外した一年生の女子生徒が、足首を押さえてうずくまっていた。周りに数人集まっていたが、誰も応急処置の仕方を知らないようだった。
「大丈夫か。ちょっと、見せて」
蓮は自然な仕草でしゃがみ込み、足首に手を添えた。周りの目を気にしながら、そっと意識を集中させる。足首の奥に、引っかかるような感触があった。それが、すぐに指先へ引き寄せられ、消えていった。
「あれ……なんか、もう痛くない、かも」
女子生徒は、不思議そうに足首を回してみせた。周りの生徒たちも「気のせいじゃない?」「捻挫って言うから心配したのに」と笑い合いながら、その場を離れていった。誰も、何が起きたのかには気づかなかった。
その夜、蓮は鏡の前に立った。
以前なら、暗い部屋では輪郭すら曖昧だったはずなのに、カーテンの隙間から入る月明かりだけで、机の上の文字が読めた。
蓮は思わず目を細めた。
「……本当に、変わってる」
初めてだった。自分の中に、ちゃんと何かがあると思えたのは。父から与えられるだけではない。自分自身の力で、何かを変えられる。
これなら――。父だって、きっと。
最初に気づいた変化は、灰斗が朝食を残さなくなったことだった。それまでは、半分ほど残すのが常だったのに、いつの間にか、いつもきれいに皿を空にしている。
灰斗が新聞を読む時間も長くなった。以前は数分でうんざりしたように畳んでいたのに、今では隅々まで目を通し、蓮に社会面の記事について話しかけてくることさえある。
そして、灰斗は夕食の席で、蓮の学校の話に普通に相槌を打つようになっていた。以前は、話しかけても短く返すだけで精一杯だったのが、今では自分から質問を返してくることもある。
ある夜、夕食の席で、沙奈がふと箸を止め、灰斗の顔をまじまじと見つめた。
「……灰斗さん、顔色、随分良くなったね」
その声には、確かめるような、それでいてどこか安堵の滲んだ響きがあった。
「そうか?気のせいじゃないか」
灰斗はそう言って笑ったが、その笑顔には、以前のような無理をしている色が薄れていた。目の下の隈も、以前より薄くなっている。
「……俺自身は、まだ完全に戻った感じはしないがな」
灰斗は、付け加えるようにそう言った。
「父さん、最近よく喋るようになったよね」
蓮がそう言うと、灰斗は少し照れたように咳払いをした。
「……そう見えるなら、悪いことじゃないな」
蓮はその変化を横目で見ながら、自分の仮説が間違っていなかったことに安心した。
使えば使うほど自分の中に力が育ち、その分、父は楽になっていく。
同じ頃から蓮の周囲にかすかな違和感も現れはじめた。
捻挫を治した一年生の女子生徒は、それ以来、廊下で蓮を見かけると必ず駆け寄ってくるようになった。以前は口を利いたこともなかったはずなのに、まるで長年の知り合いのように懐いてくる。
「先輩!あの、今日って部活ないですよね」
「……なんで分かるんだよ」
「え、なんとなく、ですけど……」
女子生徒は自分でも不思議そうに首をかしげていた。蓮は妙な落ち着かなさを覚えながらも、人懐っこい子なのかな、と考えた。
もう一つ気になる出来事があった。バスケ部の後輩――膝をすりむいたのを治してやった男子生徒――が練習中、ふと蓮の方を見て、こう言ったのだ。
「先輩、今、走るのだるいなって思いましたよね」
「……は?」
「なんとなく、分かるんですよ。最近」
後輩は、そう言って気楽に笑っていた。他の部員たちも特に気にする様子はなく、練習は普段通りに続いていった。蓮も、つられて笑い返しはしたものの、内心では、どこかざらついたものを感じていた。
偶然だ。たまたま、表情に出ていただけだ。
柚葉ほど、はっきりとしたものではない。
自分の力は、人を治すためのものだ。
それ以外の何かであるはずがない。
それに――父は、確実に良くなっている。




