第8話 帰り道
翌朝、宿に一人の男が訪ねてきた。
昨日、案内役が言っていた「少し違う立場の者」だった。年齢は灰斗と同じくらいだろうか。整った身なりをしているが、どこか神経質そうな雰囲気を纏っている。
「黒瀬灰斗の息子か」
「はい」
男は蓮の顔を、値踏みするようにじっと見た。それから、視線を柚葉に移した。その目に浮かんだ色は、これまで郷の人々が見せてきた好奇心とは、少し違って見えた。
「お前の父親は、郷を出て人間と暮らすことを選んだ。……その息子が、人間を連れてここに戻ってくるとはな」
「戻ってきたわけじゃありません。吸血の仕方を知りたくて来ただけです」
蓮がそう答えると、男はわずかに眉を動かした。
「吸血の仕方、だと…お前はまだ、血を吸ったことがないのか」
「……はい」
その一言には、何か含みがあるように聞こえた。蓮はそれ以上踏み込んでいいものか、判断がつかなかった。
「単刀直入に言う。長居はするな」
「なんでですか」
「理由は言えないが、お前たちがここにいることを、快く思わない者もいるということだ。特に――」
男は一瞬、柚葉に視線をやった。
「人間を連れてきたことは、思っている以上に意味を持つ」
柚葉が、少しだけ身を固くしたのが分かった。
「どういう意味ですか」
「お前が知る必要はない。悪いことは言わない。一刻も早く発つんだな」
「脅してるんですか」
男は、少しの間だけ黙った。
「脅しじゃない。忠告だ」
男の声から、わずかに苛立ちが滲んだ。
「この後何かが起きても――俺は、お前たちを守ってやれる立場にない。それだけは、はっきりさせておく」
男はそれだけ言うと、それ以上の説明を拒むように、背を向けて去っていった。
残された蓮と柚葉は、しばらく黙って顔を見合わせていた。
「……何だったんだろう、今の」
「分かんない。でも」
蓮は、昨日聞いた「気にかけている者」という言葉を思い出した。あの男が、そうだったのだろうか。だとすれば、その「気にかけ方」は、決して好意的なものではなさそうだった。
案内の男が、荷物をまとめて戻ってきた。
「予定より早いが、今日、帰るぞ」
「まだ、聞きたいことが」
「今回は、ここまでだ」
その口調には、有無を言わせない強さがあった。蓮は不満を飲み込んで、荷物をまとめた。
結局、何一つ明確な答えを得られないまま、郷を後にすることになった。
山道を下る足取りは、来たときよりも重かった。空はどんよりと曇り、薄い霧が木々の間を這うように漂っている。
「収穫、少なかったね」
柚葉が、努めて明るい声で言った。
「ああ」
「でも、蓮の力のこと、少しは分かったし」
「かもな」
蓮の返事は上の空だった。頭の中では、あの男の言葉が何度も繰り返されていた。
――人間を連れてきたことは、思っている以上に意味を持つ。
その言葉の意味を、蓮は理解できていなかった。それが柚葉にとって、何か良くないことを示しているのだけは、感覚的に分かった。
「なあ」
「何?」
「やっぱり、お前を連れてくるべきじゃなかったかもしれない」
柚葉は、少し驚いたように蓮を見た。
「今更、何言ってんの」
「いや、だって……あの人の言い方、明らかに柚葉のこと言ってただろ」
「気にしすぎだよ」
柚葉はあっさりと言ったが、その声には、いつもより少しだけ張りがあるように聞こえた。
案内の男は、黙々と先を歩いていた。その背中からも、来たときとは違う、どこか急いているような気配が伝わってきた。
山道は、次第に険しくなっていった。木々が密になり、足元の岩が濡れて滑りやすくなっている。霧も、来たときより濃くなっているようだった。
「気をつけろ。この辺りは足場が悪い」
男がそう言って、振り返った。その瞬間だった。
柚葉の足が、濡れた岩の上で滑った。
「あっ――」
声を上げる間もなく、柚葉の体が斜面の下へと崩れ落ちていった。
「柚葉!」
蓮は反射的に手を伸ばしたが、届かなかった。斜面はそれほど急ではなかったが、下には岩の多い沢が広がっていた。柚葉の体は、木の根や岩にぶつかりながら、数メートル下まで転がり落ちていった。
「柚葉!!」
蓮は斜面を駆け下りた。案内の男も、すぐ後ろから続いた。
沢のほとりに倒れていた柚葉は、目を閉じたまま動かなかった。頭から血が流れ、腕は不自然な方向に曲がっている。
「柚葉、しっかりしろ!」
蓮が呼びかけても、返事はなかった。かすかに上下する胸だけが、まだ息があることを示していた。
「意識がない。出血もひどい」
案内の男が、柚葉の傷を確認しながら、緊迫した声で言った。
「どうすれば……」
「郷に戻っても、ここからでは間に合わないかもしれん」
男の声には強い焦りが滲んでいた。
蓮は、柚葉の顔を見た。いつも笑っている顔が、今は青白く、力なく横たわっている。
(このままじゃ、死ぬ)
その考えが浮かんだ瞬間、蓮の体が勝手に動いた。柚葉の傷ついた腕に震える手を伸ばす。
「待て。素人が下手に触れれば」
案内の男が止めようとしたが、蓮の耳にはほとんど届いていなかった。
柚葉を助ける方法を、蓮は他に知らなかった。
指先が、柚葉の腕に触れた。
その瞬間、蓮の中で何かが弾けた。




