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血を吸わない者  作者: ぎんか
第一部 覚醒編
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第8話 帰り道

 翌朝、宿に一人の男が訪ねてきた。

 昨日、案内役が言っていた「少し違う立場の者」だった。年齢は灰斗と同じくらいだろうか。整った身なりをしているが、どこか神経質そうな雰囲気を纏っている。


「黒瀬灰斗の息子か」

「はい」


 男は蓮の顔を、値踏みするようにじっと見た。それから、視線を柚葉に移した。その目に浮かんだ色は、これまで郷の人々が見せてきた好奇心とは、少し違って見えた。


「お前の父親は、郷を出て人間と暮らすことを選んだ。……その息子が、人間を連れてここに戻ってくるとはな」

「戻ってきたわけじゃありません。吸血の仕方を知りたくて来ただけです」


 蓮がそう答えると、男はわずかに眉を動かした。


「吸血の仕方、だと…お前はまだ、血を吸ったことがないのか」

「……はい」


 その一言には、何か含みがあるように聞こえた。蓮はそれ以上踏み込んでいいものか、判断がつかなかった。


「単刀直入に言う。長居はするな」

「なんでですか」

「理由は言えないが、お前たちがここにいることを、快く思わない者もいるということだ。特に――」


 男は一瞬、柚葉に視線をやった。


「人間を連れてきたことは、思っている以上に意味を持つ」


 柚葉が、少しだけ身を固くしたのが分かった。


「どういう意味ですか」

「お前が知る必要はない。悪いことは言わない。一刻も早く発つんだな」

「脅してるんですか」


 男は、少しの間だけ黙った。


「脅しじゃない。忠告だ」


 男の声から、わずかに苛立ちが滲んだ。


「この後何かが起きても――俺は、お前たちを守ってやれる立場にない。それだけは、はっきりさせておく」


 男はそれだけ言うと、それ以上の説明を拒むように、背を向けて去っていった。

 残された蓮と柚葉は、しばらく黙って顔を見合わせていた。


「……何だったんだろう、今の」

「分かんない。でも」


 蓮は、昨日聞いた「気にかけている者」という言葉を思い出した。あの男が、そうだったのだろうか。だとすれば、その「気にかけ方」は、決して好意的なものではなさそうだった。


 案内の男が、荷物をまとめて戻ってきた。


「予定より早いが、今日、帰るぞ」

「まだ、聞きたいことが」

「今回は、ここまでだ」


 その口調には、有無を言わせない強さがあった。蓮は不満を飲み込んで、荷物をまとめた。

 

 結局、何一つ明確な答えを得られないまま、郷を後にすることになった。

 山道を下る足取りは、来たときよりも重かった。空はどんよりと曇り、薄い霧が木々の間を這うように漂っている。


「収穫、少なかったね」


 柚葉が、努めて明るい声で言った。


「ああ」

「でも、蓮の力のこと、少しは分かったし」

「かもな」


 蓮の返事は上の空だった。頭の中では、あの男の言葉が何度も繰り返されていた。

 

 ――人間を連れてきたことは、思っている以上に意味を持つ。


 その言葉の意味を、蓮は理解できていなかった。それが柚葉にとって、何か良くないことを示しているのだけは、感覚的に分かった。


「なあ」

「何?」

「やっぱり、お前を連れてくるべきじゃなかったかもしれない」


 柚葉は、少し驚いたように蓮を見た。


「今更、何言ってんの」

「いや、だって……あの人の言い方、明らかに柚葉のこと言ってただろ」

「気にしすぎだよ」


 柚葉はあっさりと言ったが、その声には、いつもより少しだけ張りがあるように聞こえた。

 

 案内の男は、黙々と先を歩いていた。その背中からも、来たときとは違う、どこか急いているような気配が伝わってきた。

 山道は、次第に険しくなっていった。木々が密になり、足元の岩が濡れて滑りやすくなっている。霧も、来たときより濃くなっているようだった。


「気をつけろ。この辺りは足場が悪い」


 男がそう言って、振り返った。その瞬間だった。

 柚葉の足が、濡れた岩の上で滑った。


「あっ――」


 声を上げる間もなく、柚葉の体が斜面の下へと崩れ落ちていった。


「柚葉!」


 蓮は反射的に手を伸ばしたが、届かなかった。斜面はそれほど急ではなかったが、下には岩の多い沢が広がっていた。柚葉の体は、木の根や岩にぶつかりながら、数メートル下まで転がり落ちていった。


「柚葉!!」


 蓮は斜面を駆け下りた。案内の男も、すぐ後ろから続いた。

 沢のほとりに倒れていた柚葉は、目を閉じたまま動かなかった。頭から血が流れ、腕は不自然な方向に曲がっている。


「柚葉、しっかりしろ!」


 蓮が呼びかけても、返事はなかった。かすかに上下する胸だけが、まだ息があることを示していた。


「意識がない。出血もひどい」


 案内の男が、柚葉の傷を確認しながら、緊迫した声で言った。


「どうすれば……」

「郷に戻っても、ここからでは間に合わないかもしれん」


 男の声には強い焦りが滲んでいた。

 蓮は、柚葉の顔を見た。いつも笑っている顔が、今は青白く、力なく横たわっている。


(このままじゃ、死ぬ)


 その考えが浮かんだ瞬間、蓮の体が勝手に動いた。柚葉の傷ついた腕に震える手を伸ばす。


「待て。素人が下手に触れれば」


 案内の男が止めようとしたが、蓮の耳にはほとんど届いていなかった。

 柚葉を助ける方法を、蓮は他に知らなかった。

 指先が、柚葉の腕に触れた。

 その瞬間、蓮の中で何かが弾けた。

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