第7話 空振り
翌朝、蓮は誰よりも早く目を覚ました。
昨日の猫のことが、頭から離れない。もう一度、同じことが起きるかどうか。それを確かめたい気持ちが、蓮を突き動かしていた。
柚葉はまだ深く眠っている。蓮は音を立てないよう部屋を出て、宿の外に出た。
朝の郷は、しんと静まり返っていた。空はどんよりと曇り、薄い霧が谷全体を覆っている。日が高くなっても、この霧が完全に晴れることはないのだろう。吸血鬼が日中も暮らせるように、この土地そのものがそうできているのかもしれない――蓮はふと、そんなことを思った。人の姿はまばらで、井戸端で水を汲む老人が一人いるだけだった。
蓮はその老人に近づいた。
「あの……おはようございます」
「ん?ああ、昨日の」
「体調、悪いところとかありませんか」
唐突な質問に、老人は怪訝な顔をした。
「なんだ、藪から棒に」
「いや……その、肩とか、揉みましょうか。お礼も兼ねて」
我ながら苦しい言い訳だったが、老人は特に疑うでもなく、肩をこちらに向けた。
「まあ、いいけどよ」
蓮は老人の肩にそっと手を置いた。
何も起きなかった。指先に、あの重い感覚は訪れない。単に年老いた肩の感触があるだけだった。
「なんだ、下手くそだな」
「……すみません」
蓮はすぐに手を離した。老人はそのまま、水桶を担いで歩き去っていった。
何も起きなかった。
蓮はもう少し試せる相手がいないか探した。宿の裏手に回り、辺りを見回した。庭の隅で、鶏が数羽、のんびりと餌をついばんでいた。どの鶏も元気そうに動き回っている。
蓮はしゃがみ込み、一羽の背中にそっと触れてみた。鶏は驚いたように身をよじり、蓮の手から逃げていった。
やはり、何も起きなかった。
(昨日のは、たまたまだったのかな……。あれ、何だったんだろう)
蓮はその場に立ち尽くしたまま、ため息をついた。分からないことばかりだった。
部屋に戻ると、柚葉がちょうど起き出したところだった。
「あれ、蓮、早いね」
「ちょっと、外に出てた」
「何してたの?」
蓮は少し迷ってから、正直に答えた。
「昨日の、もう一回できないか試してた」
「そっか、どうだった?」
「駄目だった。何も起きない」
柚葉は少し考えるような顔をした。
「なんでだろうね」
「分かんない」
「昨日は、猫が苦しそうだったからじゃない?」
「……そうかもしれない」
「苦しんでる相手に触れると、何かが起きるのかな」
「父さんのときも、そうだった。でも、まだ分からない」
その仮説は、蓮の中で妙にしっくりきた。父に触れたとき。猫に触れたとき。どちらも、相手が弱っていて、苦しんでいた。今朝の老人にも鶏にも、そういう切実さはなかった。
朝食を終えると、案内の男が部屋に顔を出した。
「今日は、もう少し話を聞ける者に会えそうだ」
男に連れられて、蓮たちは郷のさらに奥へと向かった。途中、昨日は通らなかった道を歩くと、開けた場所に出る。そこには、若い吸血鬼たちが集まって、何か作業をしているようだった。
その中の一人と、蓮の視線が合った。
昨日、木の陰から見ていた男だ。
蓮が思わず足を止めると、男もこちらに気づいたようだが、すぐに視線を逸らし、作業に戻っていった。
「……何?」
柚葉が、蓮の様子に気づいて聞いた。
「いや……なんでもない」
蓮は何も言わず、男の背中を見送った。
案内の男が、その広場の端にいた壮年の女性を紹介してくれた。郷の記録を管理しているという人物だった。
「血の吸えない半吸血鬼について、何か記録はありませんか」
蓮が聞くと、女性は少し考えるように首をかしげた。
「昨日、あなたたちが来た目的を聞いてね。気になって、夜のうちに書庫を探してみたのよ」
「それで、何か見つかりましたか」
「それが……昔、そういう記述を見た覚えがあるのに、いくら探しても出てこないの」
「記録がなくなってるんですか」
「なくなってるというか……最初からなかったのかもしれないし、私の記憶違いかもしれないし」
あるのか、ないのか結局わからないということのようだ。
その日も新しい情報はほとんど得られなかった。夕方、蓮たちは宿への帰り道を歩いていた。
「収穫、なかったね」
「ああ」
「でも、蓮の力のことは、少し分かったんじゃない?」
「……昨日の猫のときは効いて、今朝の爺さんと鶏には効かなかった、ってことだけだけどな」
「苦しんでる誰かがいないと、駄目ってことでしょ」
「たぶん、な。まだ二回しか試してないから、断言はできないけど」
「それって、結構すごいことじゃない?」
「何が」
「誰かが苦しんでると発動する力なら、誰かを助けるための力ということでしょ」
「……そうなのかな」
「きっと優しい力なんだね」
柚葉は屈託なくそう言った。蓮は、その言葉に救われた気がしたが、違和感も感じた。
優しい力。本当に、そうなのだろうか。
あの時、猫に触れた瞬間の感覚を思い出す。何かが、自分の中から抜けていった、あの重い感覚。果たして、あれが「優しさ」と呼べるものなのだろうか。
宿に戻ると、案内の男が難しい顔をして待っていた。
「明日、もう一人だけ会わせたい者がいる」
「誰ですか」
「郷の中でも、少し違う立場の者だ。……お前たちのことを、気にかけているようでな」
男の言い方には、これまでにない慎重さがあった。昼間、木の陰から蓮たちを見ていた男のことを、ふと思い出した。あの視線が誰かに報告されていたのだとしたら――そう考えると、背筋がひやりとした。
「気にかけてるって、いい意味でですか」
「それは、会ってみないと分からない」
男はそれだけ言うと、部屋を出ていった。
その夜、蓮は布団の中で、今日一日のことを振り返っていた。
自分の力には、何か条件がありそうだ。誰かが苦しんでいること。それが引き金になっているように思える。
だが、まだ確かめたわけではないし、仮にその仮説が当たっていたところで、父を救う方法に辿り着いたわけではない。
それどころか、郷には、蓮のことを気にかけている何者かがいるらしい。
その人物が味方なのかどうかも、まだ分からなかった。




