第6話 冥沢郷
山道を抜けた途端、木々の向こうに家々が見えた。
瓦屋根の古い家が、谷間に沿っていくつも並んでいる。石畳の細い道、井戸端で立ち話をする老女、軒先に吊るされた干し柿。それは蓮が想像していたような、おどろおどろしい異界ではなかった。ただの、少し時代から取り残されたような山村の風景だった。
「……ここが?」
「冥沢郷だ」
男はそう言って、集落の入り口に立つ古い鳥居のようなものをくぐった。蓮と柚葉も、後に続いた。
道を歩くと、すれ違う人々の視線が、こちらに集まるのが分かった。露骨に見るわけではないが、明らかに意識されている。特に柚葉に対する視線は、好奇心とも警戒ともつかない色を帯びている。
「人間を連れてくるなんて、珍しいこと」
通りすがりの老女が、小さく呟くのが聞こえてきた。悪意よりは驚きを感じさせる声音だった。
男は集落の奥にある、少し大きな屋敷の前で足を止めた。
「ここで待っていろ。話をつけてくる」
男が屋敷の中に消えると、蓮と柚葉は縁側のようなところに腰掛けて待った。
「思ったより普通だな」
「うん。もっとこう、お城みたいなところを想像してた」
柚葉が周囲を見回しながら言った。蓮も同じことを思っていた。テレビや映画で見るような、豪奢で不気味な吸血鬼の世界とは、まるで違っていた。
しばらくして、男が屋敷から出てきた。後ろに白髪の老人を伴っている。
「この方が、郷の長老の一人だ」
老人は、蓮の顔をじっと見た。値踏みするような視線だった。
「黒瀬灰斗の息子か」
「はい」
「血が飲めないと聞いたが」
単刀直入な問いだった。蓮は一瞬、答えに詰まった。
「……はい。一度も飲んだことがありません」
老人は眉根を寄せた。何かを考え込むように、しばらく黙っていた。
「珍しいな」
その一言に、蓮は少しだけ身構えた。
「珍しい、ですか」
「いや」
老人は言い直した。
「珍しいというより――聞いたことがない」
その言葉に、蓮は身構えた。珍しいのではなく、聞いたことがない。それは、前例すらないということだった。
「教えてもらえませんか。血の吸い方を」
蓮は思い切って聞いた。老人は、蓮の顔をもう一度じっと見た。
「教えて身につくものではない。血を吸うのは、教わることではなく、自然に発現するものだ」
「発現しないから、困ってるんです」
老人はしばらく黙っていた。蓮の頭の中をのぞき込むかのように見つめてきた。それから、静かに首を振った。
「無理に吸おうとしないほうがいい」
「なんでですか」
「……お前さんを見ていると、妙な気がするだけだ。うまく言えんが」
「妙って、どういうことですか」
「分からん。分かっていたら、こんな言い方はしない」
老人はそう言うと、それ以上は何も語ろうとしなかった。その言い方は、蓮を納得させるものではなかった。老人はそのまま屋敷の中へ戻っていった。
案内の男が、少し気の毒そうな顔で蓮を見た。
「他にも、話を聞ける者を当たってみよう」
それから半日、蓮たちは郷の中を回った。何人もの吸血鬼に会い、同じような質問を繰り返した。答えは、どれも似たようなものだった。
「血が吸えない半吸血鬼?聞いたことがないな」
「無理に吸おうとするものじゃない。時が来れば自然とできる」
「お前さんの場合は……ちょっと分からないな」
誰に聞いても、明確な答えは返ってこなかった。そもそも、同じような事例が記録に残っていないらしい。
「変だな。こういうことは、普通なら書き記してあるはずなんだが」
一人の老人がそう呟いたのを、蓮は聞き逃さなかった。
「記録が、ないんですか」
「……あるはずなんだがな」
老人はそれ以上言わず、話を切り上げてしまった。その曖昧さが、かえって蓮を不安にさせた。
柚葉がスマートフォンを取り出し、画面を確認して小さく声を上げた。
「……圏外だ」
「やっぱり?」
「うん。帰ったら連絡しないと」
柚葉はそう言って、スマートフォンをポケットにしまった。家々の窓からは電灯の明かりが漏れ、どこかで発電機らしき低い唸りが響いている。異界というより、山奥で電気だけを自前で賄っている集落、という感じだ。
見た目はどこにでもある日本の山村なのに、電波だけは一切届かない。その事実が、この場所の異質さを静かに物語っていた。
広場を歩いていると、一人の老女がすれ違いざま、柚葉をじっと見つめる。
「……やっぱり、珍しいのかな」
老女が行き過ぎてから、柚葉がぽつりと呟いた。
「何が?」
「私」
「まあ、珍しいんじゃない?蓮は平気そうだけど」
「俺は吸血鬼だからな」
「私は人間だけど、別に怖くないよ」
柚葉はあっさりと言った。その口調には、気負いも強がりもなかった。ただ、事実を述べているだけのようだった。
こういうところが、すごいと蓮は思う。自分なら、きっと怖がってしまう場面なのに。
ただ、柚葉の手が、さっきから蓮の服の裾を軽くつまんでいることには、蓮は気づいていなかった。
夕方近く、蓮たちは郷の広場のような場所にいた。柚葉は少し疲れた様子で、石段に腰を下ろしていた。
「誰も、はっきり教えてくれないね」
「ああ」
「みんな、なんか避けてる感じもする」
柚葉の言う通りだった。表面上は親切に応じてくれるものの、話が核心に近づくと、誰もが微妙に言葉を濁す。それが偶然なのか、意図的なものなのか、蓮には判断がつかなかった。
広場の隅で、蓮はふと、地面にうずくまる小さな影に気づいた。
「……猫?」
痩せた野良猫が、脇腹をかばうようにうずくまっていた。近づいてみると、脇腹の毛が血で汚れている。何かに引っかかれたか、噛まれたような傷だった。
「大丈夫かな、これ」
柚葉が心配そうに覗き込んだ。猫は弱々しく鳴くだけで、逃げる元気もないようだった。
蓮は、なぜかその猫から目が離せなかった。理由は分からない。放っておけないという気持ちだけが、強く胸の中に湧き上がってきた。
「……ちょっと、様子見てみる」
「大丈夫?引っかかれるかもよ」
「平気だと思う」
蓮はゆっくりと手を伸ばし、猫の脇腹にそっと触れた。
その瞬間だった。
指先から、何かが吸い出されるような感覚があった。同時に、猫の体がびくりと震えた。
蓮の胸の奥に、ずしりと重いものが残った。あの夜、父に触れたときと同じ感覚だった。
「……今の、何?」
柚葉が、驚いた顔で蓮を見た。
「分かんない」
猫はゆっくりと立ち上がった。さっきまで苦しそうだった呼吸も、少し落ち着いている。
「……楽になったのかな」
「分かんない。俺にも」
蓮自身にも、何が起きたのか分からなかった。傷口も、さっきと変わっているような、変わっていないような、はっきりしない見え方だった。猫はそのまま、ゆっくりとその場を離れていった。
「蓮、今、猫に何かしたよね」
「したっていうか……勝手に、何かが起きた」
蓮は自分の手のひらを見た。何も変わったところはない。それなのに、確かに何かが、自分の中から抜けていったような感覚があった。
その様子を、少し離れたところから見ていた者がいた。
郷の住人らしい若い男が、木の陰から、じっとこちらを見つめていた。蓮がその視線に気づいたときには、男はすでに背を向けて歩き去っていた。
「あの人、見てたよね」
「ああ」
蓮の胸に、不安が広がった。あの男は何を見たのだろう。
案内の男が、戻ってきた。
「今日はここまでにしよう。宿を用意してある」
「もう少し、探せないですか」
「暗くなる前に休んだほうがいい。続きは明日だ」
有無を言わせない口調だった。蓮は仕方なく頷いた。
宿へ向かう道すがら、蓮はさっきの猫のことを、男に話すべきかどうか迷っていた。話せば、何か分かるかもしれない。けれど、あの視線を思い出すと、迂闊に口にしてはいけない気もする。
結局、蓮は何も言わなかった。
その夜、あてがわれた古い部屋の布団の中で、蓮は天井を見つめていた。
猫に触れた瞬間の感覚が、まだ指先に残っている。
自分には、何かがある。それが何なのか、父を救える力になり得るのかどうかは、依然として闇の中だった。




