第5話 郷への旅立ち
月曜日の放課後、蓮は再び灰斗の部屋を訪れた。
「父さん」
「……また来たのか」
灰斗の声には、いくらか呆れたような色が滲んでいた。
「聞きたいことがある」
「この前、話しただろう。お前にできることはない」
「だったら、郷に行く」
蓮がそう言うと、灰斗の表情が強張った。
「……どこでその名前を」
「吸血鬼が集まってる場所があるって、昔誰かに聞いた気がする。詳しいことは覚えていないけれど」
柚葉に「ちゃんとした吸血鬼に聞けばいい」と言われてから、蓮はずっと考えていた。血縁上、自分もその一端にいるはずの場所。名前だけは、記憶のどこかに引っかかっていた。
「それに、母さんに聞いたら、否定しなかった」
灰斗は、口を開きかけて、しばらく黙り込んだ。窓の外では、夕方の光がゆっくりと色を変えていく。
「駄目だ」
「なんでだよ」
「あそこは、お前が思うような場所じゃない」
「じゃあどんな場所なんだよ」
灰斗は、無言のまま、ゆっくりと目を閉じた。
「父さんが教えてくれないなら、自分で調べる。それだけだ」
蓮は立ち上がった。灰斗の組んだ手にわずかに力がこもった。
「……蓮」
「何」
「気をつけろ」
それだけだった。反対とも、賛成とも分からない一言だった。蓮はその言葉の意味を測りかねたまま、部屋を出た。
台所では、沙奈が洗い物をしていた。蓮が声をかけると、沙奈は手を止めて振り返った。
「郷に行きたいんだけど」
沙奈の表情が硬くなった。
「……本気なの」
「本気だよ。父さんを助ける方法が知りたい」
「なんで、そんなことを」
「父さんも母さんも、何も教えてくれないから」
沙奈はしばらく黙っていた。蛇口から滴る水の音だけが、台所に響いている。
「危ない場所よ」
「分かってる」
「分かってない。行ったこともないくせに」
珍しく強い口調だった。蓮はたじろぎながらも、目を逸らさなかった。
「それでも行く。父さんが弱っていくのを、何もしないで見てるのは嫌だ」
沙奈は蓮の顔を、覚悟を見極めようとするようにじっと見つめていた。やがて、諦めたようにため息をついた。
「……あなたは、本当にお父さんに似てるわ。一度決めたら、絶対に譲らないところが」
「褒めてんの、それ」
「どうかしらね」
沙奈は微笑みをすぐに消して、続けた。
「あそこは、人間が気軽に入れる場所じゃないの。案内がないと辿り着けないし、案内する側にも資格がいる」
「じゃあ、誰かに頼めばいいんだろ」
「……お父さんの知り合いに、一人だけ心当たりがあるわ」
沙奈は少し迷ってから、棚の引き出しから古びたメモ帳を取り出した。ページをめくり、一つの電話番号を指す。
「この人になら、頼めるかもしれない。お父さんの、昔からの知り合い」
「なんて人?」
「詳しいことは、会ってから聞きなさい。……お母さんが説明できることは、あまりないの」
曖昧な返事だったが、蓮にとっては初めての手がかりに違いなかった。
その夜、蓮は沙奈から聞いた番号に電話をかけた。呼び出し音が長く続き、蓮が切ろうかと思い始めた頃、ようやく相手が出た。
「……はい」
低く、抑揚のない声が聞こえた。
「あの、黒瀬灰斗の息子です。蓮といいます」
しばらく、沈黙があった。電話の向こうで、何かを考えているような気配だけが伝わってくる。
「灰斗さんの……息子さん…」
「はい。父のことで、お伺いしたいことがあって」
「灰斗さんは、元気にしているか」
蓮は一瞬、答えに迷った。
「あまり、元気じゃないです。それで、力を借りたくて」
「力?」
「郷に、連れて行ってほしいんです」
「……なぜ、郷に」
「父を助ける方法を知りたいんです。父も母も、何も教えてくれないから」
「灰斗さんは、それを承知しているのか」
「…反対されました。でも、行くって決めたんで」
電話の向こうで長く息を吐くのが聞こえた。笑ったのか、呆れたのか、蓮には判断がつかなかった。
「血は争えないな」
「え?」
「何でもない」
男はそう言うと、しばらく考え込むような間を置いた。
「分かった。今度の土曜日、駅前で待ち合わせよう。九時に」
「本当に、いいんですか」
「駄目だと言っても、行くつもりなんだろう」
その通りだった。何も言い返せなかった。
「一つだけ聞いておく。同行者がいるなら今のうちに聞かせろ」
「友達が、一緒に行くと思います。人間ですけど」
電話の向こうで男が黙った。
「……人間か」
「駄目ですか」
「駄目とは言っていない。ただ、覚悟はさせておけ」
それだけ言うと、男は電話を切った。
電話を切ったあと、蓮は妙な感覚に包まれた。ずっと閉ざされていた扉が、ほんの少しだけ開いたような。
翌日の放課後、蓮は柚葉に電話のことを伝えた。
『郷への案内、頼める人が見つかった』
『マジで?いつ行くの?』
『今週末には』
しばらく既読のまま、返信が来なかった。蓮は少し不安になって、続けてメッセージを送った。
『別に、お前は来なくていい。危ないかもしれないし』
既読がついた直後、すぐに返信が来た。
『は?何それ』
『いや、だから』
『私も行く』
短い一文だったが、有無を言わせない強さがあった。蓮はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。
その放課後、二人は学校の帰り道でその話をした。
「本当に、来なくていいんだぞ」
「なんで蓮だけで決めるの」
「危ないかもしれないって言っただろ」
「危ないの、蓮も同じじゃん」
柚葉は歩きながら、まっすぐ前を見ていた。
「私だけ安全なところにいろって言われても、無理だから」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうこと?」
蓮は言葉に詰まった。柚葉を危険な場所に連れていきたくない。その気持ちをどう説明すればいいのか、うまく言葉にできなかった。
「……お前に何かあったら、俺のせいになる」
「私のことは私が決める。蓮のせいになんてならない」
柚葉はそう言い切った。
「それに、血をあげようとしたときだって、私が勝手に決めたことでしょ。今回も同じ」
蓮は柚葉の横顔を見た。迷いのかけらもない顔だった。
「……分かったよ」
蓮は苦笑した。
「お前には勝てないな」
「そんなの知ってる」
柚葉は得意げに笑った。蓮もつられて笑ったが、胸の奥には小さな引っかかりが残っていた。危ないと分かっていながら、結局は柚葉の意志に押し切られる形で連れていくことになる。
土曜日が近づくにつれ、蓮は落ち着かなくなっていった。授業中も、案内人の「覚悟はさせておけ」という言葉が頭をよぎる。
柚葉はいつも通りに見えた。少なくとも、表向きは。
金曜の夜。蓮は何度も時計を確認した。明日には、郷に向かう。期待と不安が入り混じり、なかなか寝つけなかった。
土曜日の朝、蓮と柚葉は駅前で男と落ち合った。年齢のよく分からない、痩せた背の高い男だった。二人を見ると、ほんの一瞬だけ柚葉に視線を止めた。
「本当に人間も連れていくのか」
「駄目なのか」
「駄目じゃない。珍しいだけだ」
男はそれだけ言うと、先に立って歩き出した。
駅から離れ、山へ向かうバスに乗り換え、さらに歩く。舗装された道はいつの間にか途切れ、山道になる。案内する男の足取りは迷いなく、蓮たちは黙ってついていくしかなかった。
「あの、聞いてもいいですか」
柚葉が、思い切ったように声をかけた。
「郷って、どんなところなんですか」
「行けば分かる」
男はそれ以上、多くを語らなかった。でも、しばらく歩いたところで、ふと足を止めてこちらを振り返った。
「一つだけ言っておく」
「何ですか」
「郷では、余計なことを聞くな。余計なことを言うな。ただ、目的だけを果たして帰ってこい」
その口調には、これまでになかった鋭さがあった。蓮と柚葉は、思わず顔を見合わせた。
「……何かあるんですか」
「何もなければ、こんなことは言わない」
男はそれだけ言うと、また歩き出した。
蓮の胸の中で、小さな不安が芽生えた。父が言った「駄目だ」という言葉。母が言った「案内する側にも資格がいる」という言葉。そして今、この男が言った「余計なことを聞くな」という言葉。
「大丈夫だよ」
隣を歩く柚葉が、小さな声で言った。
「何が」
「蓮、さっきからずっと難しい顔してる」
「そりゃ、するだろ」
「まあね」
柚葉はそう言って、少しだけ笑った。それだけで、蓮の肩から力が抜けた。
山道はさらに険しくなり、木々の隙間から差し込む光も、次第に弱くなっていった。案内の男は迷うことなく進み続け、やがて一本の分かれ道の前で立ち止まった。
「ここから先は、案内なしでは戻れない」
「戻れないって?」
「一人でこの道を通っても、出口には辿り着けないということだ。俺と一緒でなければ、戻ることもできない」
男の言葉に、蓮は思わず唾を飲んだ。柚葉も、隣で息を詰めているのが分かった。
「それでも、行くか」
蓮は、柚葉の顔を見た。柚葉は、迷いのない目で頷いた。
「行きます」
蓮はそう答えた。声は、思っていたよりもしっかりしていた。
男は小さく頷くと、再び歩き出した。分かれ道の先、木々の奥へと続く、より細い道へと。
蓮は柚葉と並んで、その後に続いた。
自分がこれから足を踏み入れる場所に、一体何が待っているのか。想像もつかなかった。




