第4話 吸い方が分からない
日曜日の朝、玄関のチャイムが鳴った。
蓮が出ると、そこに立っていたのは柚葉だった。
「なんでいるんだよ」
「なんでって、昨日の話でしょ」
柚葉は当然のように言って、勝手に靴を脱ぎ始めた。蓮は慌てて止めようとしたが、柚葉はもう玄関に上がり込んでいた。
休日の柚葉を見るのは、なんだか新鮮だった。いつもの制服とは違う、動きやすそうな私服姿。見慣れているはずなのに、一瞬だけ目を離せなくなった。蓮は、そんな自分を不思議に思う間もなく、柚葉の表情がいつもより少し硬いことに気づいた。
「……昨日から、ずっと考えてたのか?」
「うん」
「怖くないのかよ」
「怖いよ」
あっさり答えられて、蓮は逆に言葉を失った。
「でも、蓮のお父さんが大変なんでしょ」
柚葉はそれだけ言った。
「ちょっと待てよ、本気だったのかよ」
「本気に決まってるじゃん」
柚葉はまっすぐに蓮を見た。その目には、いつもの茶化すような色がない。
「蓮のお父さん、大変なんでしょ。私にできることがあるなら、やる。それだけ」
蓮は言葉に詰まった。柚葉がこうなると、何を言っても無駄だということを、長い付き合いの中で知っていた。
リビングに柚葉を通すと、ちょうど沙奈が台所から出てきた。
「あら、柚葉ちゃん。いらっしゃい」
「おじゃまします。……あの、蓮のお父さんのことで」
柚葉がそう切り出すと、沙奈の表情が曇った。
「蓮から聞いたの?」
「はい。力が必要なんですよね。だったら、私の血を」
「柚葉ちゃん」
沙奈が遮るように言った。優しいが、有無を言わせない声だった。
「気持ちは嬉しいわ。でも、そんなに単純な話じゃないの」
「単純じゃなくても、試してみないと分からないじゃないですか」
柚葉は引かなかった。沙奈は少しの間、柚葉の顔を見つめていたが、やがて短いため息をついた。
「……蓮、リビングで話してきなさい。私は台所にいるから」
それだけ言って、沙奈は台所へ戻っていった。
二人でソファに座ると、柚葉は自分の手首をこちらに向けた。
「はい」
「はい、じゃないだろ」
「早くしないと、決心が鈍るから」
柚葉は本気で言っているようだった。蓮はその手首を見て、それから柚葉の顔を見た。柚葉は目を逸らさなかった。
「……本当に、いいのかよ」
「いいって言ってるじゃん。何回聞くの」
蓮は深呼吸をした。手のひらに、じんわりと汗がにじむ。
柚葉の手首が、目の前にある。
こんなに近くで見ることなんて、今までなかった。細い手首。その下で、脈が規則正しく動いている。
「……なんか、変な感じだな」
「何が?」
「お前の血を飲むって考えると」
「私は別に変じゃないけど」
「俺が変なんだよ」
蓮は苦笑した。
吸血鬼なのに血が怖い。
ずっと、自分はそういうものだと思っていた。けれど、父を助けるために必要だと言われると、その「できない」が急に重く感じる。
どうすればいいのか、まったく分からない。牙は生えていない。吸血鬼が血を吸うところなど、実際に見たこともなかった。
「……どうやるんだ、これ」
「え」
「だから、どうやって吸うんだよ」
柚葉は目を丸くした。
「知らないの?」
「知るわけないだろ。父さんはコップで飲んでるし、俺、人の血を吸ったことなんて一回もない」
「……そっか。そうだよね」
柚葉は少し考えてから、自分の手首をまじまじと見つめた。
「テレビとかだと、こう、がぶっと噛みついて」
「牙ないんだけど」
「あ、そうか」
柚葉は困ったように笑った。深刻な空気だったはずなのに、その笑いにつられて、蓮も少しだけ緊張が緩む。
「じゃあ、口つけるだけでいいんじゃない?」
「それで、力になるのか?」
「知らないよ、そんなの」
二人でしばらく黙り込んだ。柚葉は手首を差し出したまま、蓮はそれを見つめたまま、時間だけが過ぎていく。
「……やっぱ、無理そう?」
「分かんない」
蓮は柚葉の手首に、恐る恐る顔を近づけた。皮膚の下に血管が透けて見える。心臓が、自分のものなのか柚葉のものなのか分からないくらい、大きく脈打っていた。
唇が触れる寸前で、蓮は動けなくなった。
目の前に、赤いものが透けて見える。それだけで、頭の芯がぐらりと揺れた。
「……ごめん」
蓮は顔を離した。
「無理だ」
「え」
「見ただけで、目が回る」
情けない話だったが、本当のことだった。柚葉の手首から視線を外しても、まだくらくらしている。
「マジで?」
「マジで」
柚葉は手首を引っ込めて、まじまじと蓮の顔を見た。
「顔、真っ青だよ」
「うるさい」
「無理しなくていいのに」
「無理してるわけじゃない。本当に、できないんだ」
「……じゃあ、今日はやめとく?」
「今日は、っていうか……たぶん、ずっと無理だと思う」
「なんで分かるの?」
「分かるよ。十五年できなかったんだから」
言ってから、蓮は少しだけ後悔した。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
柚葉は首を傾げた。
「私、蓮に血を飲んでほしいわけじゃないよ。お父さんを助ける方法になるならって思っただけだから」
蓮は俯いた。柚葉がどれだけ力を貸そうとしてくれても、自分にはそれを受け取ることすらできない。
「……やっぱり、俺には無理なんだよ」
「そんなことないでしょ」
柚葉はきっぱりと言った。
「今、やり方が分からなかっただけじゃん。無理って決めるの、早すぎ」
「じゃあどうすればいいんだよ」
「知らないけど」
柚葉はあっさりと言って、それから少し考えるように顎に手を当てた。
「誰かに聞けばいいんじゃない?ちゃんとした吸血鬼に」
「ちゃんとした吸血鬼って、誰だよ」
「蓮のお父さんの、そのまた知り合いとか」
「知り合いか…父さんに、聞いてみるか」
台所の方から、沙奈がこちらの様子を窺っている気配がした。蓮が振り返ると、沙奈はさっと視線を逸らした。
「母さん、聞こえてた?」
「……少しだけ」
沙奈はためらいがちに、リビングに戻ってきた。
「柚葉ちゃん、ありがとう。気持ちは本当に嬉しいわ」
「でも駄目でした」
「そうね。……たぶん、そういう問題じゃないと思う」
沙奈の言い方に、引っかかりを覚えた。
「そういう問題じゃないって、どういう意味だよ」
「蓮に必要なのは、誰かの血を分けてもらうことじゃないの。……うまく言えないけど」
沙奈はそこで言葉を切り、何かを確かめるように蓮の顔をじっと見た。
「母さん、それ、どういう」
「ごめんなさい、今の忘れて」
沙奈は慌てたように首を振り、何かから逃げるように台所に戻っていった。
蓮は、土曜の朝に母が慌てて隠していたものを思い出した。本だったのか、書類だったのか、はっきりとは分からない。けれど、あれも、今の母の態度と同じ種類のものだった。
(母さんは、何を隠してるんだ)
柚葉が、小声で聞いてきた。
「お母さん、なんか知ってそうだね」
「みんな、何か知ってそうなんだよ。俺以外」
その言葉には、思っていた以上に苛立ちが滲んでいた。柚葉はそれを咎めるでもなく、ただ隣に座り直した。
「じゃあ、聞き出そうよ」
「無理だって。父さんも母さんも、絶対に教えてくれない」
「本人に聞いて駄目なら、他を当たればいいじゃん」
柚葉は、あっけらかんと言った。
「蓮のお父さんの知り合いとか、蓮の知らない親戚とか。どこかに、教えてくれる人がいるかもしれないし」
蓮は苦笑いした。
「……お前がいると、なんか、できる気がしてくるから困る」
「褒めてる?」
「さあ」
蓮はソファに深く沈み込んだ。血は吸えなかった。父を助ける方法も、まだ見えない。それでも、今度は誰かに聞いてみようと思った。




