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血を吸わない者  作者: ぎんか
第一部 覚醒編
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第3話 力のない者

 土曜日の朝、蓮が目を覚ますと、家の中はいつもと違う静けさに包まれていた。

 階段を降りると、リビングに沙奈がいた。テーブルの上に何かを広げていたようだったが、蓮の足音に気づくと、慌てたようにそれを胸元に抱え込んだ。


「それ、何?」

「……お父さんの資料」


 沙奈はそう言うと、蓮に中身を見せないまま、棚の奥に急いでそれをしまい込んだ。棚の扉を閉める音が強く響いた。

 蓮には、それが本なのか書類なのかもよく分からなかった。ただ、母が慌てて隠すようなものが、この家にはまだ他にもあるらしい。


「父さんは?」

「まだ寝室。今日は起きられそうにないって」


 蓮は黙って頷いた。この二日間、灰斗はほとんど起き上がれなくなっていた。顔色は日に日に悪くなり、昨夜など、声をかけても返事が返ってこないことさえあった。


「母さん」

「何?」

「父さんの病気、本当に何も分からないの?」


 沙奈は少しの間、答えなかった。棚に手をかけたまま、蓮の方を見ずに立っていた。


「……分かってる、と思う」

「え?」

「でも、お母さんの口からは言えない」


 その言葉に、胸がざわついた。


「なんでだよ。父さんのことだろ」

「だからこそよ」


 沙奈は振り返り、蓮の目をまっすぐ見た。その目には、これまで見たことのない色が浮かんでいた。


「お父さんから聞いて。お母さんが話すことじゃない」


 それだけ言うと、沙奈は台所へ戻っていった。


 蓮は寝室の前に立った。ドアの向こうから、かすかな呼吸の音が聞こえる。ノックをしようとして、手が止まった。

 もし本当に何か重大なことを聞かされたら。――迷いはあった。でも、このまま何も知らずに済ませることは考えられなかった。

 ためらいながらドアを開けた。


 灰斗はベッドに横たわり、天井を見つめていた。頬はこけ、枕に沈んだ横顔は、数日前とは別人のように痩せて見えた。蓮が入ってきたことに気づくと、灰斗はゆっくりと首だけをこちらに向けた。その一つの動作だけでも力がいるようだった。


「蓮か」


 声はかすれていたが、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。蓮を心配させまいとする、いつもの笑い方だった。


「父さん、聞きたいことがある」


 灰斗は少し驚いたような顔をしたが、すぐに小さく頷いた。


「座れ」


 蓮はベッドの脇の椅子に腰掛けた。しばらく、二人とも何も言わなかった。窓の外から、遠くで子どもの遊ぶ声が聞こえてくる。ひどく場違いな、のどかな音だった。


「父さんの病気、本当は何なのか知ってるんだろ」


 灰斗は目を閉じた。それから、静かに口を開いた。


「……ああ」

「教えてくれよ」

「教えたところで、お前にできることは何もない」

「それでも知りたい」


 灰斗は蓮の顔をじっと見た。ゆっくりとまばたきをして、口を開いた。


「俺を治すには、吸血鬼としての力がいる」

「……力?」


「お前も知っての通り、俺たちの力は血から来る。もっと言えば、他の吸血鬼から分け与えられた力でも、同じことができる」


 蓮には、話の輪郭がまだ掴めなかった。


「つまり……誰かの血を、父さんに?」

「そう単純な話じゃない。だが、方向としては近い」


 灰斗はためらいがちに、次の言葉を続ける。


「本来なら、俺の症状を治せるのは、それなりの力を持った吸血鬼だけだ。血を飲み慣れた、しっかりとした力を持つ者でなければ、意味がない」


 蓮は、自分の手のひらを見た。


「俺じゃ、無理ってことか」

「……」


 灰斗は答えなかった。


「俺、血が飲めない。牙もない。力なんて、あるわけない」


 声が、思っていたより大きく出てしまう。


「蓮」

「何だよ」

「それでいい」

「よくないだろ! 父さんが死にそうなんだぞ!」


 灰斗は驚いた様子もなく、ただ静かに蓮を見ていた。


「死にはしない。今すぐには」

「今すぐじゃなくても、いつかは死ぬってことだろ」


 答えはなかった。その沈黙が、何よりも雄弁だった。


「じゃあ、どうすればいいんだよ」

「……分からない」


 灰斗は長く息を吐いた。


「本当は、俺にも分からないんだ。ただ、お前の力でどうにかなることじゃない。それだけは、はっきりしている」

「なんでそう言い切れるんだよ」

「言い切れる」


 その口調には、有無を言わせない強さがあった。蓮は言葉を失った。


「蓮。頼むから、余計なことは考えるな」

「余計なことって何だよ」

「お前が、俺のために無理をすることだ」


 灰斗はそう言うと、静かに目を閉じた。話は終わりだというように。

 蓮はそれ以上何も言えず、部屋を出た。


 ドアを閉める直前、振り返ると、灰斗は目を閉じていた。その眉間には、苦しそうな皺が寄っていた。


 リビングに戻ると、沙奈が心配そうな顔で待っていた。


「聞いたの?」

「聞いた。でも、全然分かんなかった」


 蓮はソファに座り込んだ。


「力がいるってことだけは分かった。でも、俺にはそれがないから無理だって、それだけ」


 沙奈は何も言わず、蓮の隣に腰を下ろした。


「母さん、父さんを治せる方法、本当にないの?」

「……分からない。お父さんは何も教えてくれないから」

「母さんにも?」

「あの人は、昔からそう。自分でどうにかしようとする人だから」


 沙奈の声には、諦めと、それでも消えない苛立ちが滲んでいた。


 その日の午後、蓮は自分の部屋にこもって、ずっと考えていた。

 父は、俺では父を治せないと言う。

 しかし、あの夜、父に触れたとき、確かに何かが起きた。あれは何だったのか。


(俺には、本当に何もないのか?)


 考えても考えても、答えは出ない。


 夕方になって、スマートフォンが震えた。柚葉からのメッセージだった。


『お父さん、どう?』


 蓮はしばらく画面を見つめてから、返信した。


『あんまりよくない』

『何かできること、ない?』


 その一文を見て、蓮は苦く笑った。


『力がいるんだって。俺にはないから、無理』


 しばらく既読がついたまま、返信が来なかった。蓮はスマートフォンを机に置いて、ベッドに横になった。

 力がない。それは、これまでも何度も思い知らされてきたことだ。

 でも今度は、それが誰かの命に関わっている。


 しばらくして、また画面が光った。


『その力って、もしかして血を飲むことと関係あるの?』


 蓮は少し考えてから返信した。


『そうらしい。でも俺、飲めないし』

『飲めないんじゃなくて、飲んだことないだけじゃん』


 蓮は言葉に詰まった。柚葉らしい理屈だと思った。単純で、まっすぐで、蓮が長年避けてきた核心を、あっさり突いてくる。

 

『……試してみたら?』

『何を?』

『私の血、あげる』


 蓮は、その一文を何度も読み返した。

 冗談なのか、本気なのか、文字だけでは分からなかった。

 ただ、柚葉らしいと思った。深く考える前に、まず手を差し出してしまうところが。

 蓮は返信を打とうとして、何と書けばいいのか分からず、指を止めた。

 力がないのは自分だ。柚葉の血をもらったところで、それを父に渡す方法すら、蓮には分からない。

 それでも――柚葉のその一言は、蓮の胸に、ふわっとした温かさを残していった。

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