第2話 病名のない病
救急車を呼ぶべきかどうか、母の沙奈はしばらく迷っていた。
「人間の病院じゃ、原因なんて分かりっこないわよね…」
電話の受話器を置きながら、沙奈がそう呟いた。声は落ち着いていたが、指先はまだ小さく震えていた。
「じゃあ、どうするんだよ」
「知り合いの医者を呼んだわ。……人間じゃない、こっち側の」
こっち側、という言い方に、蓮は違和感を覚えた。まるで、人間の医者では意味がないと最初から分かっているような口ぶりだった。
三十分ほどして、見知らぬ男が家にやってきた。白髪の混じった髪の毛を、オールバックになでつけている初老の男で、黒い鞄を提げている。名乗りもせず、居間に入るなり灰斗の横に膝をついた。
「灰斗さん、聞こえますか」
灰斗はうっすらと目を開けたが、返事はしなかった。男は灰斗の手首を取り、指先の位置を何度か変えながら、脈を確かめていた。それから瞼をめくり、首筋にそっと触れる。灰斗が苦しげにうめいた。
「……最近、血は?」
「飲んでいます」
沙奈が即座に答えた。
「量は?」
「以前と変わりません。むしろ、少し多いくらいです」
男はため息のような長い息を吐いた。頭の中で、思い当たる要因を色々思い浮かべているような、難しい顔つきをした。
「それで、これですか……」
男はそう呟くと、灰斗の胸に手を当て、目を閉じた。しばらくじっとしていたが、ふと、その目がリビングの入り口に立つ蓮の方を向いた。
一瞬だけ。けれど確かに、男は蓮を見た。
蓮はその視線の意味が分からず、思わず身をこわばらせた。男はすぐに視線を灰斗に戻し、何事もなかったように診察を続けた。
「……脈は弱いですが、致命的なものではありません」
男は眉根を寄せた。
「熱もない。外傷もない。血の巡りに、これといった異常も見当たらない。それなのに、これだけ弱っている」
男はそこで一度言葉を切り、独り言のように続けた。
「体の内側から、何かが目減りしているような……そんな感じはしますが」
沙奈がその言葉を聞き取って、身じろぎした。蓮には、その言葉の意味がよく分からなかった。ただ、「目減りしている」という表現と、さっきの一瞬の視線だけが、耳と目に残った。
「何か、心当たりは?」
男が沙奈に尋ねた。
「……いいえ、特には」
その返事の仕方に、蓮は違和感を感じた。さっき、男の言葉に母は反応していた。何かを知っていいるのではないか。
男は結局、はっきりした診断名を告げないまま、点滴の準備だけをして帰っていった。「これで様子を見てください。何かあればすぐに連絡を」とだけ言い残して。
その夜、灰斗はソファから寝室のベッドに移された。蓮は自分の部屋に戻ったものの、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、今日感じたいろいろな瞬間がよみがえる。
父の手を握った瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。そして、父の顔から苦しげな皺が、一瞬だけ消えた。それに、あの医者が自分を見た、あの一瞬。
(あれは、何だったんだ)
どれも、きっと大した意味はない。気にしすぎだ。そう考えようとしたが、うまくいかなかった。
翌朝、蓮が階段を降りると、リビングには誰もいなかった。いつもなら新聞を広げているはずの父の椅子は、空のままだった。
台所には母がいて、鍋で何かを煮込んでいた。赤黒い、独特の匂いがする。人間の食べ物ではないことは、匂いだけで分かった。
「父さんは?」
「まだ寝てる。……今日は学校、休んでもいいのよ」
「行くよ。何かあったら連絡して」
沙奈は少しの間、蓮の顔を見つめてから、軽く頷いた。
「蓮」
「何?」
「昨日……お父さんに触れたとき、何か感じた?」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
蓮が聞き返すと、沙奈は黙り込んだ。
「……ちょっと気になっただけ」
「母さん、何か知ってるの?」
「何も知らないわ」
その言い方は、蓮にはどうしても嘘のように聞こえた。沙奈は鍋を見つめたまま、じっと何かを考え込んでいる。
もう、家を出ないといけない時間になった。蓮はそれ以上聞くのをやめて、鞄を持って玄関に向かった。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
沙奈の返事は、いつもより一拍遅れて聞こえた。
外はいつも通りの通学路だった。けれど、蓮の頭の中はいつも通りではなかった。疑問と不安がぐるぐると駆け巡り、考えがまとまらないまま歩いているうちに、いつの間にか校門が見えてきた。
学校に着くと、柚葉が普段通り話しかけてきた。
「蓮、今日元気ない?」
「別に。普通だけど」
「嘘つけ。昨日もなんか変だったじゃん」
「そうだっけ」
「そうだよ。朝からずっとぼーっとしてた」
柚葉は昔から、蓮のこういう変化によく気づく。蓮は迷ってから、小さな声で答えた。
「父さんが、倒れたんだ。昨日」
「え」
柚葉の表情が、一瞬で変わった。
「大丈夫なの?」
「分かんない。病院……というか、専門の人が来て診たけど、原因が分からないって」
柚葉は何か言おうとしたけれど、何も思いつかなかったのか、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「蓮のお父さんって、ちゃんと血を飲んでる人なんだよね?」
「そうだけど」
「なのに倒れるくらい具合悪いって、なんかおかしくない? 血、吸血鬼のご飯みたいなものでしょ。ご飯食べてるのに倒れるみたいな」
その素朴な例えが、妙に胸に残った。
父は血を飲める。自分は飲めない。
なのに、倒れたのは父だった。
放課後、蓮はまっすぐ家に帰った。柚葉は「何かあったら声かけてね」とだけ言って、いつもより早く別れた。
蓮は柚葉には話してよかったと思った。昔から、家では何も聞けないことでも、柚葉になら素直に話せる。
家に着くと、灰斗はリビングのソファに座っていた。昨日よりは幾分顔色がましになったようだが、それでもまだ本調子ではなさそうだった。
「父さん、大丈夫?」
「ああ。心配かけたな」
灰斗はそう言って笑おうとした。けれど、その笑顔は弱々しかった。
「昨日の人、結局、はっきりしたことは何も言ってなかったよね」
「……ただの疲れだろう」
「疲れで、あそこまで倒れる?」
蓮は食い下がった。
灰斗は少しの間、蓮の顔を見つめた。
「…蓮。お前は、心配しなくていい」
「父さん、昔からそうだよな」
「何がだ?」
「何かあっても、俺には大丈夫って言う」
灰斗は何かを言いかけて、口を開いたが、やめたように見えた。
「……そうだったか?」
「そうだよ。ずっとそう」
「……悪かったな」
それだけだった。灰斗はそれ以上、何も説明しようとはしなかった。
その夜、蓮は自分の部屋のベッドに横になりながら、天井を見つめていた。
父は何か隠している。母も何か知っている。昨日来た医者も、自分を見て何かを確かめるような目をしていた。そして自分は、父に触れた瞬間、何かを感じた。
その四つが、頭の中でばらばらのまま、繋がらずに転がっていた。
どれくらい経った頃だろうか。廊下から両親の話し声が聞こえてきた。小さな声だったが、静まり返った夜の中では、かすかに言葉の断片が聞き取れた。
「……このままじゃ、いずれ」
「分かってる。でも、蓮にはまだ」
「いつまで隠すつもりなの」
そこで、声はぴたりと止んだ。寝室のドアが閉まる、小さな音がした。
蓮は布団の中で、息を潜めていた。
(このままじゃ、いずれ――何だ)
聞こえた言葉の続きを蓮は知らない。
両親は、何かを隠している。




