第1話 黒瀬蓮の悩み
吸血鬼なのに、血が吸えない。
それが、黒瀬蓮の悩みだった。
物心ついた頃から、父の灰斗はいつも同じことしか言わなかった。
「無理に飲まなくていい」
それだけだった。吸血鬼なら、いずれ血を飲めるようになるのが普通だ。なのに父は、一度も「練習しろ」とは言わない。
なぜなのか、蓮は考えたこともなかった。
朝、蓮が階段を降りていくと、リビングからトーストの焼ける匂いがした。灰斗はすでにテーブルについて、食パンを片手に新聞を広げている。
いつもなら寝癖ひとつない黒髪も、今日は少し乱れていた。顔色も悪い。目の下には薄く影が落ちている。
「おはよう」
「おう」
灰斗は新聞から目を上げずに答えた。蓮は椅子を引いて座り、目の前に置かれた皿からパンを一枚取った。いつもと同じ、代わり映えのしない朝の風景だ。
「父さん、また顔色悪いよ」
「そうか?」
「昨日も悪かったじゃん」
「寝不足なだけだ」
灰斗はそう言って笑った。けれど、コップを持ち上げる手が、ほんのわずかに震えていた。
「血、ちゃんと飲んでる?」
「……飲んでるよ」
一瞬、間があった気がした。灰斗は血を飲める吸血鬼だ。飲んでいるなら、体調が戻らないのはおかしい。なのに、ここ最近ずっと具合が悪そうで、気になっている。
「顔色、悪いよ。病院行ったら」
「人間の病院に行っても、原因は分からないさ」
お決まりの軽口が返ってきた。蓮は灰斗の手元のコップをちらりと見て、内心で(いつ見ても、まずそう……)と思った。薄い赤色をしたそれを、父は週に何回か当たり前のように飲んでいる。自分がいつかあれを美味いと感じる日が来るなんて、蓮にはまるで想像がつかない。
パンを食べ終えると、蓮は皿をシンクに運んだ。灰斗はまだ新聞を読んでいる。震えていた手は、もう落ち着いているようだ。
「行ってくる」
「ああ」
灰斗は顔を上げずに片手を挙げた。玄関で靴を履きながら、蓮は台所の方をちらりと振り返ってみた。父の背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
外に出ると、九月の朝の空気はまだ夏の名残で湿っていた。蝉の声はもうほとんど聞こえない。蓮は鞄を担ぎ直し、いつもの通学路を歩き出した。
角を曲がったところで、後ろから自転車のブレーキ音がした。
「蓮、おはよ。今日もそれ?」
振り返ると、日向柚葉が自転車を押しながら追いついてくるところだった。指されたのは、蓮の鞄からはみ出した紙パックだ。
「別に、トマトジュースくらい普通だろ」
「まずそう」
「飲んでから言えよ」
「いやだよ」
「じゃあ言うな」
「だって蓮、毎日それ飲んでるじゃん」
「仕方ないだろ」
「別に仕方なくないけど」
「……何が」
柚葉は少し考えるように黙ってから、こう言った。
「蓮が血を飲めなくても、蓮は蓮じゃん」
「……」
「だから、そんな顔しないでって」
「どんな顔だよ」
「半端者みたいな顔」
蓮は何も言い返せなかった。柚葉は昔からこうだ。悪気なく核心を突いてくる。
二人並んで歩くうちに学校に着いた。正門をくぐり、昇降口で靴を履き替える。柚葉はクラスが違うので、途中の廊下で「じゃあね」と手を振って別れた。蓮は自分の教室に入り、いつもの席に鞄を置いた。
午前中の授業は、いつも通り緩慢に過ぎていった。二限目は体育で、蓮は跳び箱に手をついた拍子に、手のひらを擦りむいた。
「黒瀬、結構血出てんじゃん」
クラスメイトの一人が眉をひそめた。蓮は自分の手のひらを見て、思わず「うっ」と小さく呻いた。目の前がちかちかして、貧血を起こす前の血が引く感じがしてきた。
「……大丈夫かよ」
「大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ」
保健室に行くほどでもない程度の傷だった。蓮は深呼吸を一つして、恐る恐るもう一度手のひらを見た。傷はもう塞がりかけていた。
「治るの早くね?」
「吸血鬼だから」
「ああ、そうだったな…」
興味を失ったように、クラスメイトは離れていった。体育館の隅で、蓮はもう一度、手を開いてみた。傷跡は、もう分からなくなっている。
傷が早く治ること自体は、蓮にとって珍しくもなんともない。物心ついたときからずっとそうだった。普通の人よりは夜目も利く。吸血鬼なら当たり前のことだ。
でも、その血を一目見ただけで立ちくらみを起こすのは、果たして当たり前と言えるのだろうか。牙は生えない。血を飲みたいと思ったことなど、一度もなかった。我ながら、ちぐはぐな体だと思う。
(俺は、半端なんだ)
着替えを終えて教室に戻ると、昼休みのチャイムが鳴った。蓮は弁当を広げた。近くの席では、クラスメイトたちが購買で買ったパックジュースを飲みながら、他愛のない話をしていた。
「なあ、黒瀬の親父って吸血鬼なんだろ? 血、うまいの?」
別のクラスメイトが、ふと思い出したように聞いてきた。蓮の鞄からいつものトマトジュースが覗いているのを見て、話の流れで出た質問らしい。
「……知らねえよ、飲んだことないし」
「え、そうなの?」
「黒瀬、ハーフだから飲めないのか?」
悪意はないのだろう。ただの世間話のつもりなのだろう。蓮は曖昧に笑って誤魔化した。
午後の授業も終わり、蓮は鞄を持って昇降口へ向かう。外に出ると、柚葉が校門のところで待っていた。
「一緒に帰ろ」
二人で並んで歩き出す。夕方の日差しはまだ強く、アスファルトの照り返しが眩しかった。しばらく無言で歩いていたが、途中で柚葉が「蓮さ」と切り出した。
「無理に血とか飲まなくてもいいと思うけどな」
「無理にって言われても、飲みたいとも思わないし」
「それでいいじゃん」
柚葉はそれ以上何も聞いてこない。角を曲がったところで、いつものように「じゃあまた明日ね」と手を振って、柚葉は自分の家の方へ歩いていった。蓮はその背中を少しだけ見送ってから、自分の家へと足を向けた。
柚葉と話していると、半端者だということを、あまり気にせずにいられる。
それが、蓮には心地よかった。もう少し一緒に歩いていたい。なぜそう思うのか、蓮にはまだ分からなかった。
柚葉と別れた角から家までは、あと五分ほどだった。
玄関の前に着いて、蓮は違和感に気づいた。明かりがついていない。
「ただいま……?」
返事がない。靴を脱ぐのも忘れて、蓮は居間に駆け込んだ。母の沙奈が青ざめた顔で電話の受話器を握っていた。
「蓮っ」
「父さんが、倒れたの」
居間の隅、ソファの上に灰斗が横たわっていた。
朝は新聞を読んでいた手が、今は力なく胸元に落ちている。髪も乱れ、額には薄く汗が浮かんでいた。息はしている。けれど、顔は朝よりもさらに血の気を失っていた。
「父さん!」
蓮は駆け寄り、倒れ込むように父の手を握った。
その瞬間だった。
灰斗の眉間に寄っていた苦しげな皺が、ほんの一瞬だけ、ふっと緩んだ。
同時に、蓮の胸の奥が、ずしりと重くなった。
息が詰まるような感覚。何かが自分の中に流れ込んでくる――いや、逆だ。何かが自分から出ていったような。
「……今の、何だ?」
蓮には分からなかった。
灰斗がうっすらと目を開けた。焦点の合わない目で、蓮の顔を見る。
「……蓮」
「父さん、しっかりして」
灰斗は少しの間、蓮の顔を見つめていた。それから、ひどく掠れた声で言った。
「……まだ、何も起きていないはずなんだが」
「え?」
それだけ言って、灰斗はまた目を閉じた。
「父さん?」
返事はなかった。
蓮には、その一言の意味が分からなかった。
ただ、父の手を握った手のひらに、まだあの重い感覚が残っていた。




