第27話 対決
土曜日の朝、灰斗が古書店の開店準備をしていると、店の扉のベルが鳴った。入ってきたのは、ゼン。
朝の光の中で見るゼンは、河川敷で会ったときよりも、どこか研ぎ澄まされた雰囲気をまとっていた。蓮は棚の整理を手伝っていた手を止め、思わず身構えた。
「何しに来た」
「お前に、話がある」
ゼンの視線は、灰斗ではなく蓮に向けられていた。
「郷の一部で、噂になっている。灰斗殿の息子が、あちこちで人間を癒やし始めたと」
蓮の背筋が、冷たくなった。
「もう、そこまで知られてるのか」
「郷は、思っているより広く、お前を見ている」
ゼンが店の中をゆっくりと歩きながら続ける。
「制御できない力が、無差別に広まっていく。それが、何を意味するか分かるか。お前一人の話では、もう済まなくなるということだ」
灰斗は、蓮とゼンの間に一歩踏み出した。
「ゼン。話があるなら、俺が聞く」
「灰斗殿の出る幕ではありません」
ゼンの声は静かだが、有無を言わせない響きを持っていた。
「これは、彼自身の話だ」
蓮は拳を握った。逃げたい気持ちと、逃げてはいけないという気持ちが、同時にせめぎ合う。
「俺は、もう決めた」
「何を」
「使うなら、全部引き受ける。相手には、何も残さない」
ゼンは、その言葉を聞いて、わずかに目を細めた。
「自己犠牲、か」
「知ってるのか」
「知っている。かつて、同じ道を選んだ男がいた」
亙のことだと、蓮はすぐに気づいた。
「その男が、どうなったか、お前は知っているか」
「……禁書で読んだ。最後は、異端者として告発された」
「そうだ。善意から始まり、覚悟を決め、それでも、歯止めが利かなくなった。お前が今言っていることは、あの男が最初に言っていたことと、驚くほど似ている」
その言葉が、蓮の胸に重く突き刺さった。
「俺は、あいつとは違う」
「今は、そう思っているだろうが」
ゼンの目に、憐れむような色が浮かんだ。
「証明してみせろ」
「……何?」
ゼンは懐から一本のナイフを取り出した。刃が朝の光を鈍く反射する。
灰斗の顔色が変わった。蓮を庇うように一歩前に出る。ゼンが蓮に刃を向けるつもりだと、とっさにそう判断したのが分かった。
「よせ!」
だが、ゼンはその刃を、蓮にではなく自分の左手のひらに向けた。
迷いのない動きで、刃が皮膚を裂く。血が、すっと滲み出した。
灰斗が息を呑む音が、店内に響いた。
「……何のつもりだ」
「言った通りだ」
ゼンは血の滲む手のひらを、蓮に向けて差し出した。
「お前が本当に、自己犠牲型を貫けるというなら――俺に何も残さず、この傷だけを消してみせろ」
店内の空気が、さらに張り詰めた。灰斗はまだ、ゼンから目を離さなかった。庇うように蓮の前に立った体は、すぐには引かなかった。
「灰斗殿。これは、お前と俺の話ではない」
ゼンの声に、灰斗はわずかに眉を寄せたが、それ以上は動かなかった。
蓮は、ゼンの手のひらを見た。小さな傷ではなかった。ナイフで切られた傷は、思っていたより深く、血の量も多い。
失敗すれば、何が起きるか分からない。
震える手を伸ばす。
「分かった…」
指先が、ゼンの手のひらに触れる。
いつもの重い感覚が、体の奥から立ち上がってきた。今回は、それを相手に渡さない。すべて自分の中に留める。蓮は歯を食いしばり、意識を指先に集中させた。
傷が、ゆっくりと塞がっていく。
同時に、蓮の膝が、がくりと折れた。
「蓮っ」
灰斗が駆け寄ろうとするのを、蓮は片手で制した。
「大、丈夫だ」
息が荒い。全身から汗が噴き出している。だが、傷は完全に塞がっていた。
ゼンは自分の手の甲を、じっと見つめていた。
「……何も、感じない」
その呟きには明らかな驚きが滲んでいた。
「郷に伝わる話でも、記録に残る亙の話でも――力を使われた者には、何かしら小さな違和感が残るものだとされていた。少なくとも、俺はそう聞いていた」
ゼンは蓮の顔を見た。膝をつき、荒い息をしている蓮を。
「お前は、本当にやったのか」
「……言った、だろ」
なんとか顔を上げて、ゼンを見返した。
「覚悟を持って、使うって」
ゼンは、しばらく蓮を見下ろしたまま、動かなかった。その表情から、何を考えているのか蓮には読み取れなかった。
「その体で、いつまで続けられる」
ゼンの声には、先ほどまでの試すような響きはもうなかった。ただ、純粋な疑問のように聞こえた。
蓮は答えられなかった。答えは、まだ蓮自身も持っていない。
蓮が呼吸を整えている間、灰斗とゼンは、しばらく無言で向き合っていた。先に口を開いたのは、ゼンだった。
「灰斗殿」
「……何だ」
「あの日のことを、覚えていますか。俺が彼女のことをあなたに相談した日です」
灰斗の表情が強張った。
「覚えている」
「あなたは危険から遠ざけるのも愛情だと言った。俺は、それを信じた。彼女には理由も言わずに別れを告げました」
ゼンの声は静かだが、その静けさの下に、二十年かけて固められた何かがあるのが、蓮にも分かった。
「それなのに、あなた自身は逆の道を選んだ。人間の女性と結婚し、子をなして。それを知ってから、ずっと、あなたを許せない気持ちがあった」
灰斗は何も言わずに、ただ、じっとゼンの言葉を受け止めていた。
「自分に別れを勧めておきながら、自分はその道を選ばなかった。裏切られたような気持ちだったよ」
「……ゼン」
灰斗が久しぶりにその名を呼んだ。
「言い訳をするつもりはない。だが、聞いてくれるか」
ゼンは冷たい表情のまま黙っていた。
「お前に、あの助言をした頃――俺自身まだ何も選んでいなかった。沙奈と出会う前の話だ。危険から遠ざけるのが愛情だという言葉は、俺の本心から出たものではなかった。郷の教えを、そのまま、お前に渡しただけだった」
ゼンが灰斗を見つめる目つきが険しくなった。
「その後、俺は沙奈に出会った。教えとは違う道を、自分の意志で選んだ。だが、お前に対して、その助言を撤回することはしなかった。もう遅いと思ったからだ。それに――正直に言えば、自分が正しかったと、まだ思い込みたかったのかもしれない」
灰斗は、そこで一度言葉を切った。
「今、お前と蓮のやり取りを見て思う。あの助言は、間違っていたのかもしれない。危険だから離れろと俺が先に決めた。お前がどうしたいのかを聞きもしなかった」
「……今さら遅いですがね」
「ああ。遅い」
灰斗は、それ以上何も付け加えなかった。付け加えられる言葉が、他になかったからだった。
ゼンは切った自分の手のひらを、もう一度見た。傷はなく、違和感もない。そこにあったはずの痛みの記憶だけが、じんわりと残っていた。
「郷の反共存派すべてが、俺と同じ考えを持っているわけではない」
ゼンは蓮の方に向き直った。
「俺の一存で彼らを止めることはできない。今日、ここで起きたことも、いずれ他の者たちの耳に入るだろう。そうなれば、また別の動きが出てくるかもしれない」
「……それだけか」
「それだけだ」
ゼンは感情の見えない声で続けた。
「郷全体を俺一人でどうにかできるとは思っていない。だが、少なくとも俺自身は、今日お前を見て考えを変えた。それがすぐに何かを動かすとは限らない。それでも、変わらないよりは、いいはずだ」
そう言い残して、ゼンは店を出ていった。扉の鈴が、小さく鳴った。
店内には蓮と灰斗だけが残された。蓮は、まだ立ち上がれずにいた。
「終わった、のか」
「終わってはいない」
灰斗は蓮の隣にしゃがみ込んだ。
「ゼン一人が変わったところで、郷全体がすぐに変わるわけじゃない。それに、お前がその体で、これからも自己犠牲型を使い続けるつもりなら――別の問題が、いずれ必ず出てくる」
蓮は自分の手のひらを見た。まだ、指先が微かに痺れていた。
「今日のことは確かに一歩だ。だが、たった一歩だ」
蓮は何も言い返さなかった。立ち上がろうとして膝が笑った。灰斗の腕が黙ってその体を支えた。




