第26話 『好きだから』の罠
柚葉の家を出てから数日、蓮の中で何かが少しずつ変わっていった。
怖いのに離れない、と言ってくれた人がいる。その言葉は、胸の奥にずっと残っていた。誰も傷つけないために力を封じる。その決意が、以前ほど確かなものには思えなくなっていた。
放課後、昇降口を出たところで、蓮は前を歩いていた一年生らしき男子生徒がつまずくのを見た。段差に足を取られ、受け身も取れずに転ぶ。周りの生徒たちが「大丈夫かよ」と声をかけながら集まってくる。
男子生徒は膝を押さえて、顔をしかめていた。
「痛ってえ……」
「けっこう派手に転んだな」
「保健室行くか?」
「いや、平気」
そう言って立ち上がろうとした男子生徒の膝から、血が一筋流れているのが見えた。
蓮の足が、自然と止まる。
助けたい。
その気持ちが、体の奥から湧き上がってくる。同時に、頭の中で灰斗の声がした。――お前自身が、その力とどう向き合うか。決めておくことだ。あの言葉を聞いてから、蓮はずっと力を封じてきた。誰かに触れれば、何かが相手に残る。それが怖くて、目の前で困っている人間を見ても、見ないふりを続けてきた。
だけど。
(柚葉は、選んでくれた)
(俺がどんな力を持っていても、そばにいるって)
その言葉が、頭の中で繰り返された。
なら、いいんじゃないか。
柚葉が受け入れてくれたなら、この力を使うことも、もう間違いじゃないんじゃないか。
蓮は、そう考えている自分に気づいた。
わずかな違和感はあったが、今はただ、目の前で膝を押さえている生徒がいる。それだけで、十分だった。
「大丈夫?ちょっと見せて」
蓮は膝をついて、男子生徒の傷口に手を伸ばした。
「え、あ……はい」
戸惑いながらも、男子生徒は素直に足を差し出した。蓮は膝の傷にそっと触れる。周りの生徒たちは、何が起きているのか分からないまま、ただ見守っていた。
あの夜、灰斗にしたようには、しなかった。全部を引き受ければ、相手には何も残らない。それは分かっていた。だが、膝の擦り傷くらいなら、これまでと同じ程度でいい。そう決めて、指先に意識を向けた。いつもの重い感覚が伝わってくる。何かを引き受け、何かを渡す。血はすぐに止まり、傷口はみるみるうちに塞がっていった。
「え?」
男子生徒が、自分の膝を見て目を丸くした。
「治って……え、なんで」
「気のせいだろ」
蓮はそう言って、立ち上がった。周りの生徒たちも、狐につままれたような顔をしていたが、それ以上は誰も追及してこなかった。
蓮は、自分の手のひらを見た。
久しぶりに使った力は、思っていたよりずっと自然に体になじんだ。まるで、ずっとこうしていたかのように。
歩き出しながら、蓮は柚葉の顔を思い浮かべた。柚葉が受け入れてくれたから、これでいい。そう自分に言い聞かせた。
それから一週間ほど、蓮は同じことを繰り返した。捻挫した陸上部員、貧血で倒れかけた見知らぬ生徒、犬に噛まれた近所の子供。最初のうちは、傷が塞がったあとも、しばらく自分の手を見つめていた。けれど、何度か繰り返すうちに、その時間は少しずつ短くなっていった。
力を使うたびに、蓮の行動は人目につくようにもなっていた。木曜の放課後、裏門の陰に、見覚えのない男が立っているのに気づいた。柚葉を狙った男とも、灰斗の店を見張っていた男とも、顔立ちが違う。何をするでもなく、ただ蓮の方を見ている。目が合うと、男はそのまま踵を返して去っていった。蓮はそれを、気のせいだと思うことにした。郷のものとは限らない。
金曜日の放課後、蓮は柚葉と一緒に下校した。いつもの通学路の途中、柚葉がふと足を止める。
「蓮、最近さ」
「……何」
「また力、使ってるでしょ」
すぐには答えられなかった。
「なんで分かるんだよ」
「なんとなく。前より、ちょっと肩の力が抜けてる感じがするから」
柚葉は責めるような口調ではなかった。静かに事実を確かめているだけだった。
「別に、悪いことだとは思ってない。でも」
「でも?」
「私が言ったのは、蓮と私の話だよ」
その一言が、蓮の胸に鋭く刺さった。
「私が『そばにいる』って言ったのは、蓮を許すためじゃないし、誰にでも力を使っていい理由でもないと思う」
「……それは」
「分かってるでしょ、蓮も」
何も言い返せなかった。柚葉の言葉を都合よく引き伸ばして、自分の後ろめたさを覆い隠していたのだ。
二人はしばらく無言で歩いた。夕方の空は赤く染まり始めていた。
蓮は自分の手のひらを見た。この一週間で何人もの人間に触れた手だった。相手の中には、何も残していない。そのはずだった。引き受けた痛みを抱えたまま、自分がどこまで持つのか。それは蓮自身にも分かっていない。
分かっていないまま、続けていいはずがなかった。
「……ごめん」
「私に謝ることじゃないよ」
柚葉は前を向いたまま言った。
「蓮が、ちゃんと自分で決めなきゃいけないことだと思う」
その言葉で、蓮は初めて自分が何も決めていなかったことに気づいた。力を封じると決めたのも、それを破ったのも、どちらも本当の意味で自分の意志ではなかった。恐怖から逃げるように封じ、寂しさと柚葉の言葉に流されるように再開した。どちらも、目の前の感情に押し流されただけだった。
家に帰ると、灰斗が居間で古書店の帳簿をつけていた。顔色は、以前よりだいぶ良くなっていた。蓮はその隣に座り、しばらく黙っていた。
「父さん」
「ん?」
「俺、ちゃんと決めようと思う」
灰斗は帳簿から顔を上げた。
「力を封じるんじゃなくて。かといって、何も考えずに使うんでもなくて」
「どういうことだ」
「使うなら、あの夜みたいに全部引き受ける。相手には何も残さない。半端に渡して、ごまかすのは、もうやめる」
灰斗はしばらく、蓮の顔を見つめていた。
「その覚悟は、お前が思っているより、ずっと重いものだぞ」
「分かってる」
「分かっていない。まだ、何も」
灰斗の声には責めるような響きはなかった。ただ、事実として、そう言っているだけだった。
「だが」
灰斗は帳簿を閉じた。
「お前がそこまで言うなら、止めはしない」
その夜、蓮は自室で禁書の写しを再び開いた。亙の記録――善意で始まり、少しずつ歪んでいった力の使い方。あの結末を繰り返すつもりはなかった。
あの夜は父のためだった。見ず知らずの誰かのためにも、同じことができるのか。蓮には、まだ分からなかった。




