第25話 引き受ける
それから三日ほど、蓮は誰にも力を使わずに過ごした。
学校では相変わらず誰とも目を合わせず、家に帰れば自室にこもった。柚葉からのメッセージにも、ようやく短く返すだけの日々だった。
その間、灰斗の様子が少しおかしいことに、蓮はうっすらと気づいていた。夕食の席で、灰斗が何か言いかけては、箸を止めて黙り込む。蓮と目が合うと、すぐに視線を逸らす。
「……何か言いたいことでもあるのか」
一度、蓮のほうから聞いたことがあった。灰斗は少し驚いたように顔を上げ、それから、いつもの飄々とした調子に戻って首を振った。
「いや。何もない」
嘘だと蓮にも分かった。だが、それ以上踏み込む気力が、今の蓮にはなかった。自分のことで精一杯だった。灰斗の顔色が、心なしか前より悪いことにも、気づいてはいた。気づいていながら、深く考えることを避けていた。
しかし、力を使わない決意は、三日と持たなかった。
夜遅く、蓮が自室で天井を見つめていると、階下から沙奈の悲鳴が聞こえた。蓮は飛び起き、階段を駆け下りた。
居間の床に灰斗が倒れていた。顔は蒼白を通り越して、灰色に近かった。呼吸は浅く、額には脂汗が滲んでいる。
「灰斗さん!」
沙奈が灰斗の体を抱え起こしながら叫んだ。
蓮の頭に、以前灰斗が言っていた言葉が蘇った。「長く分け与え続けて、俺自身が弱りすぎた。力は、弱った者ほど、制御できなくなる」――あのとき灰斗は、そう説明していた。蓮が力を使い、いろいろな生き物の怪我や病気を治すようになってからは、灰斗が力を分け与える必要はなくなり、少しずつ顔色も良くなっていった。蓮はそれを、良い兆候としか思っていなかった。
「蓮」沙奈は振り返らずに言った。「あなたがこの三日、力を使ってないこと、お父さんは何も言わなかったけど、ずっと気にしてた」
「それが、これと関係あるのか」
「分け与える必要が、また出てきたんだと思う」
沙奈の声は責めているというより、事実を確かめるように静かだった。
「蓮が力を使わなくなった分、お父さんが自分の中の力を、また外に出さなきゃいけなくなった。今のお父さんには、それを抑えるだけの余力が、もう残ってない」
蓮は、その場に立ち尽くした。自分が「誰も傷つけたくない」という理由で下した決断が、一番傷つけたくなかった相手を、こんな形で追い詰めていた。
灰斗が、うっすらと目を開けた。
「……蓮」
「喋らないで」
「お前の……せいじゃない」
かすれた声で続ける。
「黙ってた、俺が悪い」
嘘ではないのだろう。それを聞いても蓮の中の恐怖は消えなかった。
灰斗を助けたい。しかし、この手でまた誰かに何かを残してしまうかもしれない。
柚葉の顔が浮かんだ。河川敷でゼンが言っていた。「まだ引き返せる場所にいる」。
だが、目の前で父を失うことだけは、選べなかった。
――他に方法がない。
蓮は灰斗の隣に膝をつき、その手を取った。震えは止まらなかった。禁書に書かれていた、もう一つの方法のことを思い出す。自分の負担をすべて引き受ければ、相手にはほとんど何も残らない。読んだだけで試したことは一度もなかった。うまくいく保証など、どこにもなかった。
蓮は目を閉じ、これまでのように相手の苦しみを軽く受け流すのではなく、自分の内側で全部を受け止めるつもりで、意識を灰斗に向けた。
最初は何も起きなかった。いつものように、指先から冷たいものがじわりと伝ってくるだけだった。だが次の瞬間、その冷たさが急に勢いを増した。灰斗の中で暴れていたものが、逃げ場を求めて一気に蓮のほうへ雪崩れ込んでくる。今までとは比べ物にならない重さだった。骨の芯まで凍りつくような感覚が這い上がり、蓮は思わず奥歯を噛みしめた。
――もっと。もっと引き受けなきゃ。
蓮は逃げようとする自分を、内側から押さえつけた。今、手を離せば、この重さの半分は灰斗の中に戻ってしまう。それだけは、させたくなかった。
腕が痺れ、視界の端が白く飛びかけた。それでも、灰斗の手を握る力だけは緩めなかった。頭の中で、亙の記録の文字が一瞬よぎる。相手に残さない。自分が全部背負う。それが正しい方法なのか、蓮には分からなかったが、今はただ灰斗を救いたかった。
どれくらいそうしていたのか、蓮には分からなかった。永遠のようにも、ほんの数十秒だったようにも感じられた。
やがて、流れ込んでくるものの勢いが、少しずつ弱まっていった。冷たさは体の芯に居座ったまま消えなかったが、それ以上は増えなかった。蓮は、詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
灰斗の呼吸が、少しずつ、深く、規則正しくなっていくのが分かった。
*
灰斗の呼吸が落ち着いてから、丸一日が経っていた。意識は戻ったが本調子ではないらしい。沙奈に「今日はもう休んで」と言われて、灰斗は早々に自室に下がっていった。
その背中を蓮は何も言えずに見送った。知りたいのに聞くのが怖かった。
だが、柚葉に会わずにいることには、もう耐えられなかった。翌日の放課後、蓮は柚葉の家に向かった。
インターホンを鳴らす。
「……来るとは思ってたけど」
ドアを開けた柚葉は、蓮の顔を見て一瞬だけ目を見開いた。それから、ぎこちなく笑った。
「思ったより早かった」
「……悪い」
「別に、謝ることじゃないし」
柚葉は肩をすくめて、顎で家の中を示した。
「上がって。何も聞かないから」
蓮は靴を脱いだ。柚葉は何も聞いてこなかった。灰斗のことも、蓮の様子がここ最近おかしかったことも。いつもよりゆっくりとした足取りで先に階段を上がっていく。その背中が何かをこらえているように見えた。
部屋に入ると、カーテンの隙間から夕方の光が斜めに差し込んでいた。柚葉はベッドの端に腰かけ、蓮には勉強机の椅子を勧めた。二人の間に、いつもより少し距離があるように感じられた。しばらく、どちらも口を開かなかった。窓の外で、誰かの自転車のベルの音が遠ざかっていく。柚葉は膝の上で両手を組んだり離したりしながら、視線をさまよわせていた。
「……蓮」
ようやく柚葉が口を開いた。声が少し震えていた。
「力を使わないって、蓮が決めたとき」
「うん」
「私、正直すごく怖かった」
「なんで」
「なんでって」
柚葉は膝の上の手を、ぎゅっと握った。
「蓮、あの頃、学校でもずっと上の空だったでしょ。話しかけても、ちゃんとこっちを見てくれないことが多くて…。前は、私が何か言えば、『それ違う』とか『そうかもな』とか、ちゃんとぶつかってきてくれたのに。あの頃は、何を言っても、ただ頷くだけだった」
柚葉はそこで言葉を切り、蓮の顔をまっすぐ見た。
「それが、まるで……蓮が、少しずつこっち側からいなくなろうとしてるみたいに見えたの」
何も言えなかった。
「もし蓮が、『自分がいない方がいい』って本気で思い始めてたら、そのままどこにも戻ってこなくなるんじゃないかって」
柚葉は少しだけ俯いた。
「……馬鹿みたいでしょ、こんなの」
「馬鹿じゃない」
蓮は即座に言った。それ以外の言葉が、すぐには出てこなかった。柚葉が見ていたものは、蓮自身も気づいていた。誰も傷つけたくない。その思いの中には、もう誰とも関わらずに済む場所へ逃げたい気持ちも混じっていた。
「だから、これだけは言っておきたくて」
柚葉は顔を上げた。まっすぐに、蓮を見る。
「蓮がどんな力を持ってても。それでどんな結果になっても、私は、蓮のそばにいるのを選ぶ」
柚葉は一度、息を吸った。
「怖くないわけじゃない。でも……怖いから離れるっていうのは、違うと思う」
その声は、震えていなかった。
柚葉の言葉は、蓮の中の一番柔らかい場所にまっすぐ届いていた。
柚葉は、蓮の返事を待っていた。
信じたい。だが、柚葉の中には、まだ自分の力の欠片が残っている。この気持ちは本当に柚葉自身のものなのか。
蓮は、その疑いを口にしなかった。
柚葉の目を見たまま、ゆっくりと頷いた。




