第24話 残されたもの
家に戻ると居間の明かりがついており、柚葉が来ていた。
「蓮、遅かったね」
柚葉は、いつものように笑った。しかし、その直後、柚葉が椅子から立ち上がりかけて、少しふらついた。蓮は急いで駆け寄った。
「大丈夫か?」
「うん、平気。ちょっと、めまいがしただけ」
柚葉はそう言って、もう一度笑顔を作った。
「蓮、何かあった?顔、すごく強張ってる。それに、胸のあたりが、さっきからずっとざわざわしてて」
言葉に詰まった。河川敷でゼンと会っていた時刻と、柚葉の様子がおかしくなった時刻は、おそらく重なっている。
「……いや、何もないよ」
嘘だと自分でも分かっている。柚葉も、たぶん分かっている。でも、それ以上は聞いてこなかった。
その日は柚葉も遅くまでいるわけにはいかず、夜が更ける前に自分の家へ帰っていった。玄関先で、柚葉は外に出ようとして、もう一度だけ蓮の方を見た。
「何かあったら、ちゃんと言ってね」
蓮は頷いた。頷きながら胸の奥がずきりと痛んだ。
柚葉が帰った後、蓮は自室に戻り、電気もつけないままベッドに腰かけた。
柚葉の中に残っている自分の一部。もしそれが、蓮の感情の揺れに反応しているのだとしたら。本当にそうなのか確かめたい。
蓮は、あえてゼンとの会話を思い出してみた。「引き返せる場所にいる」という言葉。灰斗の隠していた過去。自分の中に渦巻く恐怖と怒りを、意識してもう一度呼び起こした。
数分後、蓮のスマートフォンが鳴った。柚葉からだ。もう家に着いている頃だった。
「ねえ、蓮。今、大丈夫?」
「なんで?」
「分からないけど。急に、蓮が怖がってるような気がして。胸のあたりが、また苦しくなって」
蓮は、受話器を握る手が冷たくなっていくのを感じた。
離れた場所にいても、柚葉は蓮の感情を感じ取っている。蓮が意識して力を使っているわけでもないのに。柚葉の中に残った自分の一部が、まだ蓮とつながっている。蓮がその気になれば、柚葉の心に直接触れることさえできるのかもしれない。柚葉がそれを望んでいるかどうかに関係なく。
蓮は手のひらを見つめた。
そうだとしたら、自分は知らないうちに、柚葉の意思の及ばないところにまで踏み込んでいたことになる。
同時に蓮は思い出していた。居間で柚葉が見せた、あの顔。「顔、すごく強張ってる」と言った、あの言葉。柚葉は、蓮の表情を見て、心配してくれたのだ。胸のざわめきだけで気づいたわけではない。それは、残されたものとは関係のない、柚葉自身の気持ちのはずだ。
柚葉のこの気遣いのどこまでが柚葉自身のもので、どこからが蓮が残したもののせいなのか。蓮には、その境目が、もう分からなかった。
「柚葉、ごめん。俺、今、少し怖いことに気づいた」
震える声で言った。
「何?」
「後で話す。今日はもう、休んでくれ」
電話を切った後、蓮はしばらく動けなかった。
亙が長老に触れたときも、こんなふうに、相手とのつながりを断ち切れないと感じたのだろうか。
使うか使わないか。それだけは自分で選べると思っていた。
しかし、自分の感情が揺れるだけで柚葉に影響するのなら、その選択さえ、本当に自分の手の中にあるのだろうか。
翌朝、蓮は柚葉からのメッセージに気づいていながら、しばらく返信できずにいた。
『昨日のこと大丈夫?』
『話せるとき話してね』
文面はいつも通り優しかった。それがかえって蓮を苦しくさせる。この優しさは本当に柚葉自身のものなのか。それとも、蓮が知らないうちに植えつけたものの一部なのか。考え始めると指先が動かなくなってしまう。
結局、蓮はその日一日、スマートフォンを開かなかった。
学校でも誰とも目を合わせないようにした。休み時間、廊下の向こうで大きな声が上がった。クラスメイトの一人が階段を踏み外し、足首を押さえてうずくまっている。
蓮の体は考えるより先に動いた。数歩、駆け寄りかけて――手を伸ばそうとした瞬間、指先が止まった。
触れたら、俺はまた何かを残してしまうかもしれない。
その一瞬の迷いのうちに、別のクラスメイトが先に駆け寄り、うずくまった生徒の肩を支えて立たせていた。周りに人が集まり、誰かが保健室の先生を呼びに走っていく。蓮は、その輪の外に立ち尽くしていた。
力を使うのは怖い。だが、使わないことで誰かを助けられない自分も、受け入れがたい。
放課後、家に帰ると、灰斗が店から戻っていた。
「顔色が悪いな」
「……別に」
「柚葉くんから連絡があった。お前と連絡が取れないって」
蓮は俯いた。
「怖いんだ。俺が力を使ったら、相手の中に何かを残してしまう。本人が望んでいるかどうかも関係なく」
蓮は一度言葉を切った。
「今日だって、クラスの奴が怪我して助けようとしたのに……手を止めた」
灰斗は、しばらく黙って蓮を見ていた。
「それで、お前は楽になるのか」
「分からない。だけど、これ以上誰かを巻き込みたくない」
「柚葉くんもか」
蓮は答えられなかった。
柚葉の顔を思い浮かべるだけで、胸が締めつけられた。会いたい。自分が何をしてしまったのか、確かめたい。でも、今の自分には、もう誰かに触れる資格がないように思えた。
その夜、蓮は決めた。
――もう、誰にも力を使わない。




