第23話 ゼンとの邂逅
その日の夕方、蓮は一人で外に出た。頭の中を整理したかった。灰斗にも沙奈にも、少しだけ一人にしてほしいと頼んだ。
いつもの河川敷まで歩き、土手に腰を下ろす。川面は夕日を受けて、橙色に揺れていた。こんなに穏やかな景色を見ているのに、頭の中は禁書の内容でいっぱいだった。柚葉の中に残っているもの。亙という男の末路。自分がこれから、何をすべきなのか。
犬を散歩させる人や、学校帰りの学生、買い物袋を提げた親子が、次々とそばを通り過ぎていった。
しばらくそうしていると、背後に人の気配を感じた。
振り返ると、土手の上に、一人の男が立っているのが見えた。年齢は灰斗と近いだろうか。仕立ての良い、飾り気のない黒っぽい服を着ている。物腰は穏やかで、少なくとも、すぐに危害を加えてきそうには見えなかった。柚葉を狙った男や、店を見張っていた男とは雰囲気が違う。
だが、その目は妙に冷たかった。蓮を見つめているのに、目の前の相手を見ているだけではないような、遠いものを見ているような目だった。
とっさに立ち上がった。
「あんたも、郷の人間か」
「そう警戒しなくていい」
男は両手を軽く広げて害意がないことを示した。
「今日は、話をしに来ただけだ」
「話?」
「お前たちを見張らせていたのは、俺だ」
「柚葉に声をかけた男もか」
「あれは俺の指示ではない。だが、俺の側の人間が動いたことに変わりはない」
蓮は拳を握った。
「あんたが元凶なんだな」
「元凶、というのは、少し違う。柚葉くんの件は、行き過ぎだった。俺にも責任があると思っている」
「信じられるわけないだろ」
「信じなくてもいい。ただ、聞いてほしいことがある」
男は蓮との距離を、ゆっくりと詰めてきた。蓮は一歩下がりかけて、踏みとどまった。
「名乗ってもいなかったな。是永 ゼンという」
灰斗から一度も聞いたことのない名だった。この家族を追い続けている張本人。反共存派の、まさに中心にいる人物。
「聞いてほしいこと?」
「そうだ」
ゼンは頷いた。
「俺は、お前を助けたいと思っている」
「助ける、って、よく言うよ。柚葉や父さんを狙わせておいて」
「二人に手を出すつもりはない」
ゼンの声に、初めて硬さが混じった。
「俺が気にしているのは、お前が何も知らないまま、その力を使い続けることだ」
その言葉を聞いて一瞬詰まった。
「……灰斗さんから、禁書は見せてもらったか」
蓮は噛みしめるように口元を結んだ。
ゼンは小さく息をついた。
「なら分かるはずだ。お前は今、あの記録の男と同じ場所に立ってる。まだ引き返せる場所に、な」
「引き返すって、どうやって」
蓮の声は自分でも驚くほど掠れていた。
ゼンは、しばらく蓮を見つめた。答える代わりに川面に目をやる。
「お前はまだ何も知らない。その力が本当は何をしているのか。使い続けたら、お前自身がどうなるのか。……灰斗さんは、そこまでお前に話しただろうか」
その一言で、蓮の脳裏に、灰斗が言いかけて止めた「あのときも、俺は守ることばかり考えていた。結果として――」という言葉が浮かんだ。
「あんた灰斗と何かあったのか」
ゼンの表情が一瞬揺れた。長い沈黙があった。夕日が、いつの間にかさらに傾いていた。
「……昔、俺にも大事な人間がいた」
ゼンは川の向こうに目をやったまま、ぽつりぽつりと語り始めた。
「郷の外で暮らす、人間の女だった。もう二十年以上前の話だ。俺は灰斗さんを兄のように慕っていた。だから、迷ったときは、いつも灰斗さんに相談していた」
「その人のことも?」
ゼンは頷いた。
「俺は本気だった。郷を出て、その女と暮らしたいとまで思っていた。だが、俺と一緒になれば彼女まで郷に目をつけられる。今のお前たちのようにな……」
黙って続きを待った。
「灰斗さんに相談したとき、こう言われた。『危険から遠ざけるのも愛情だ』」
その言葉を口にするゼンの声は、どこか乾いていた。
「俺は、その言葉を信じた。正しいと思った。だから、何も告げずに、その女の前から姿を消した。二度と会わなかった。あれから一度も自分の選択を疑ったことはなかった――最近までは」
「……どういう意味だ」
「報告を受けている。柚葉くんに接触した日、お前は呼ばれてすぐに駆けつけた。その夜も彼女を一人にしなかった」
ゼンは続けた。
「自分のそばにいれば危険だと分かっていながら、だ。……俺は、それができなかった」
蓮は返す言葉を持たなかった。離れることなど考えたこともなかった。ただ、柚葉を一人にしたくなかっただけだった。
「さっきもだ。俺が近づいたとき、お前は一歩下がりかけて、踏みとどまった。怖かっただろうに。……俺は踏みとどまれなかった」
ゼンは、そこでようやく蓮のほうを向いた。
「そして、灰斗さん自身も俺とは逆の道を選んだ。沙奈さんと出会って、危険を承知の上で人間と共に生きる道を」
思わず一歩詰め寄った。
「それの、何が悪い」
「悪いとは言っていない」
ゼンは苦々しげに答えた。
「ただ、俺は分からなくなる。俺があのとき手放したものは、本当に手放さなければならなかったのか。それとも、俺はただ怖かっただけなのか。……灰斗さんやお前が選んだ道を見るたびに、それを考えずにはいられない」
しばらくの沈黙のあと、ゼンは目を伏せ、また元の冷たい表情に戻した。
「今日はこれだけ伝えに来た。お前がまだ知らないことは、まだたくさんある」
ゼンは踵を返し、土手を下りていった。
蓮は自分の足元を見た。さっき、下がりかけて止めた足。膝が、まだ小さく震えていた。




