第22話 異端者
その後も、亙は同じ方法で人々を癒やし続けた。誰も何をされているかに気づかなかった。気づいた者がいたとしても、それを言葉にできる者はいなかった。
ある日、亙のもとに、村の若い娘が運ばれてきた。心の病だった。眠れず、誰とも話さず、部屋に閉じこもって何日も食事を取らなかった。医者にも治せなかった。
亙は娘の手を取った。今までのように、傷や痛みを治すのとは勝手が違った。娘の心の奥には、暗く冷えた場所があった。亙はそこに、そっと触れながら、囁くように語りかけた。
「大丈夫。もう怖くない」
娘の恐怖が、少しずつ薄れていくのが分かった。亙は、これで上手くいくと思った。恐怖さえ消えれば、あとは娘自身が元に戻っていくはずだった。
「気分が、軽いです」
娘は数年ぶりの笑顔を見せた。娘の家族は涙を流して喜んだ。亙は、また一人救えた。
けれど、それから娘は、亙のことしか話さなくなった。亙が来るまで何も口にせず、亙が帰ろうとすると、すがりついて泣いた。以前の彼女を知る者たちは、その変わりように戸惑った。
亙自身も、おかしいとは感じていた。恐怖が消えた場所には、何もない空白が残るわけではなかった。「大丈夫。もう怖くない」――亙がそう語りかけながら触れた分だけ、娘の心には「亙がそばにいれば、もう怖くない」という形で、その言葉がそのまま焼きついていた。亙は恐怖を取り除いたつもりだった。だが実際には、恐怖の代わりに、自分への依存を娘の中に残していた。
亙はふと、骨折を治したあの男を思い出した。
あのときも、相手の内側に触れた。娘とは違い、体の治ろうとする力に触れただけだった。それでも男は、亙を避けるようになった。
あの男にも何かを残してしまったのではないか。
――俺は治しているつもりだった。でも、それだけじゃない。俺は悪いところに触れるたびに、相手の心にまで、何かを及ぼしているのか。
その考えに辿り着いたとき、亙はしばらく動けなかった。傷は治ったはず。でも、二人とも以前の自分ではいられなくなっていた。しかも、二人とも、それを望んだわけではない。
――俺がしてきたのは、治すことじゃない。作り変えることになっていたのか?
――やめよう。
そう思った。だが同時に別の声も聞こえた。
もしこの力を使うのをやめれば、また誰かが苦しみを抱えたまま放っておかれる。方法が変わっただけで、誰かを助けることができた、という結果は変わっていない。誰も傷ついたと訴えてはこない。
亙は、結局、力を使い続けることにした。
その頃、郷を治める長老たちの一人が、亙の噂を耳にするようになった。治療を受けた者たちが、揃って亙にしか心を開かなくなっていく。長老は、それを不自然だと感じた。人を助けているにしては、助けられた者たちの目に、どこか怯えの色があることにも気づいていた。
長老は亙を呼び出した。
「お前のやっていることを、詳しく話してもらいたい」
亙は言葉に詰まった。正直に話せば、今までのすべてが終わる。それだけは避けたかった。
「……ただ、皆を助けているだけです」
「それだけには、見えない」
長老は穏やかに、しかし鋭く言った。
「これ以上、お前を郷で自由にさせるわけにはいかない」
その言葉を聞いた瞬間、亙の中で何かが軋んだ。積み上げてきたものが、すべて否定された気がした。
「待ってください」
亙は長老に歩み寄り、その手を取った。何をするつもりか、自分でもはっきりとは分かっていなかった。ただ、この人に、自分のしてきたことを認めてほしかった。反対する声を静めたかった。
長老は、はっと目を見開き、その手を振り払おうとした。全身で抵抗する気配が、亙の手のひらに伝わってきた。それでも力はあっさりと届いた。抗おうとする意志が、水に落ちた墨のようにじわりと薄まっていくのが分かった。長老の目から敵意が消えていく。
その様子を戸口から見ていた者がいた。
悲鳴が上がり、郷中に亙の噂が広がるまで、さほど時間はかからなかった。
――異端者だ。あの男は人の心を奪う。
郷の者たちは亙を捕らえようとした。かつて彼に救われた者たちの多くが、真っ先に彼を糾弾した。亙は、それすらも理解できなかった。俺は皆を助けてきたはずなのに。
◇◇◇
記録は、そこで途切れていた。次のページは根元から引き裂かれていた。
蓮は本から顔を上げた。
部屋は静かだった。灰斗は何も言わず、蓮の反応を待っている。窓の外はいつの間にか昼近くになっていて、カーテンの隙間から細い光が差し込んでいた。
蓮の手は、震えていた。
読んでいる間、何度も自分のことのように感じた場面があった。人を助けたいという気持ち。断れない性分。力を使うたびに感じる、あの冷たさ。そして――柚葉。
柚葉を助けたとき、蓮はただ、目の前で消えかけている彼女を失いたくなかった。相手がどう感じるかなど、考える余裕もなかった。
「柚葉の中に、俺の何かが残ってるって、そういうことか」
灰斗は答えなかった。
蓮の脳裏に、柚葉を救ったときの光景が蘇った。あのとき柚葉が瀕死から生還した後、以前とは少し違う体質になった。感覚が鋭くなり、蓮の気配を誰よりも早く察するようになった。あれは偶然の副作用だと、ずっと思っていた。
亙の記録を読んだ今なら分かる。あれは副作用ではない。蓮が柚葉の中に残した、蓮自身の一部だった。
しかも、自分が負担をすべて引き受ければ、柚葉にはほとんど何も残さずに済んだかもしれない。
知らなかった。知らないまま、柚葉に何かを残した。取り戻せるのだろうか。いや、取り戻さなければならない。
「俺は」
蓮は自分の手のひらを見つめた。
「俺も亙と同じことをしてたのか」
「同じじゃない」
灰斗は静かに言った。
「お前は、誰かの意思を奪おうとしたことは一度もない」
「今は、な」
その一言に、灰斗が息を呑む気配がした。
亙も最初は人を助けたかっただけだった。
いつから、助けることが相手の意思より大切になったのか。
蓮には分からなかった。自分も同じ道をたどるかもしれない。そのことが怖かった。
蓮は、禁書の最後のページ――引き裂かれた跡を、指でなぞった。それから、ゆっくりと自分の手を握った。
「……俺も」




