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血を吸わない者  作者: ぎんか
第三部 真実編
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第20話 禁書

 翌朝、蓮が居間に下りると、沙奈が一人でテーブルについていた。テーブルの上のお茶も、昨夜のまま誰にも片付けられていなかった。


「おはよう」

「……おはよう」


 蓮は椅子に座りながら、辺りを見回した。


「柚葉、まだ来てないんだ」

「うん。連絡はしてある。少し休ませてあげたほうがいいと思って」

「父さんは?」

「まだ部屋にいる。昨日の夜、遅くまで起きてたみたい」


 蓮は頷いて、冷めた麦茶を一口飲んだ。喉を通り過ぎるだけで、味はほとんど感じなかった。


「父さん、あれから何か言ってた?」

「ううん」


 沙奈は湯呑みを両手で包みながら、静かに首を振った。


「でも、蓮。昨日の話、私もずっと考えてた」


 沙奈はテーブルの上に視線を落とした。


「守るとか、離すとか、そういう話をする前に、まず知らなきゃいけないことがあると思うの」

「何を?」

「郷が、何をそんなに恐れているのか」


 蓮は沙奈を見た。


「お父さんが郷を出たのは、蓮が生まれる前でしょう。それなのに、あの人たちは今になって、こんなに執拗に蓮を――ううん、私たち家族全員を追ってる。ただ人間と暮らしているというだけで、ここまでするとは思えない」

「反共存派だから、じゃないのか」

「それだけなら、お父さん一人を狙えばいい。柚葉ちゃんまで調べ上げて、店まで見張る必要はないはずよ」


 沙奈は湯呑みを置いた。


「郷は、蓮の力そのものを恐れてる。私にはそう思える」


 蓮は黙り込んだ。自分の力について、まだ知らないことが多すぎることに、改めて気づかされた。相手を癒やす力。でも、それだけでないことも、うすうす分かっている。誰かを癒やすたび、自分の中の何かが、少しずつ相手に移っていく感覚があった。


「父さんに聞いても、はぐらかされるだけだった。……でも、父さんが持ってるものの中に、何か手がかりがあるかもしれない」


 そこへ、灰斗が二階から下りてきた。ちょうど今の話を聞いていたのか、その顔にはいつもの飄々とした様子がなかった。


「沙奈、その話は、まだ――」


 沙奈は遮るように言った。

 

「あなた……いつまでそんなこと言っているの? 蓮に、理由も分からないまま逃げ続けさせるつもり?もう、隠しておける段階じゃない」


 灰斗は何も言わず、拳を握りしめていた。


「あなた、郷から持ち出したものがあるんでしょう」


 蓮ははっとした。店で父が答えなかった、あの問い。「この店に、何があるんだ」という自分の言葉が、頭の中で蘇った。


「……全部は、渡してこなかった」


 灰斗はようやく口を開いた。


「郷を出るとき、一つだけ持ち出したものがある。ずっと、自分の部屋にしまっておいた」

「それが、店にあるものと関係してるのか」


 蓮は聞いた。


「店にあるのは写しだ。本物は――」


 灰斗は言葉を選ぶように、一度言葉を切った。


「お前も、小さい頃に見たことがあるはずだ。俺の部屋にある、黒い革表紙の古い本だよ」


 蓮の記憶の奥で、何かが繋がった。子供の頃、父の部屋でこっそり見た、重く古い本。あれには触るなと、珍しく強い口調で言われたことを覚えている。


「あの本に、何が書いてあるんだ」


 灰斗は蓮の目をまっすぐ見て答えた。


「……あの禁書には、お前と同じ力を持っていた人間の記録が残ってる」


 蓮は息を止めた。


「誰の記録だよ」

「それは、俺から説明するよりも……禁書を自分で読んでもらった方が早い」


 父の表情は、今まで見たことがないほど重かった。


 ◇


 灰斗の部屋は、店よりもさらに物が少なかった。ベッドと文机、そして壁一面の作り付けの棚。カーテンは閉め切られ、電灯の光だけが室内を照らしていた。棚には修繕途中の古書が並んでいたが、その一番奥、鍵のかかった小さな引き出しに、灰斗は手をかけた。階下では、沙奈が居間で待っている。柚葉には、まだ何も知らせていなかった。


「本当に、見ていいのか」


 蓮は聞いた。


「お前が聞いたんだろう」


 灰斗は鍵を差し込みながら答えた。


「今さら、見せないという選択肢はない」


 鍵が回る音がした。引き出しから取り出されたのは、思っていたよりずっと小さな本だった。子供の頃に見た記憶では、もっと大きく、重く感じていた。今、灰斗の手の中にあるそれは、黒い革表紙が乾いてひび割れ、角が丸く磨り減っている。表紙の隅には、何かで焦がしたような跡が残っていた。


「これ……」


 蓮はその跡を指さした。


「郷を出るとき、火をかけられかけた。持ち出したこと自体が、許されないことだったからな」


 灰斗はしばらく、それを開こうとしなかった。両手で本を包むように持ったまま、じっと表紙を見つめていた。その指先がかすかに震えている。


「父さん?」

「……昔、これを郷から持ち出したとき、俺は正しいことをしたと思ってた」


 灰斗はぽつりと言った。


「でも、開くたびに、それが本当に正しかったのか分からなくなる」

「どういう意味だよ」

「これは郷の正式な記録じゃない……郷の書庫から、誰かが消そうとしたものを、俺が写した。全部じゃない。写せたのは、ごく一部だけだ」

「消そうとした、って」


 蓮の声が強張る。


「記録ごと、消すってことか。どうしてそんなことを」

「異端者についての記録は、本来なら残さない。存在そのものをなかったことにする。それが郷のやり方だ。」


 灰斗は本の表紙を、指先でなぞった。


「残せば、誰かがいつか読む。読めば、傷つく者が出るかもしれない。でも、なかったことにするほうが、俺には耐えられなかった。……それが正しい選択だったのか、今でも分からない。お前に見せる今日この日でもだ」


 蓮は、その言葉の重さをすぐには飲み込めなかった。父がこれほど長く、一人で何かを抱えていたことに、初めて気づかされた。


「その人、俺と同じ力を持ってたんだよな」


 灰斗は答える代わりに、蓮の目をじっと見た。


「似てるのか。それとも、同じなのか」

「……読めば分かる」


 そう言われ、ようやく表紙を開いた。黄ばんだ紙の匂いが、部屋に広がる。

 蓮は思わず身構えた。恐ろしい何かが書かれているのではないかと、覚悟していた。知ってしまえば、もう後戻りはできない。


 最初のページには、かろうじて読み取れる一文だけが記されていた。


 ――その男は、人を癒やす力を持っていた。

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