第20話 禁書
翌朝、蓮が居間に下りると、沙奈が一人でテーブルについていた。テーブルの上のお茶も、昨夜のまま誰にも片付けられていなかった。
「おはよう」
「……おはよう」
蓮は椅子に座りながら、辺りを見回した。
「柚葉、まだ来てないんだ」
「うん。連絡はしてある。少し休ませてあげたほうがいいと思って」
「父さんは?」
「まだ部屋にいる。昨日の夜、遅くまで起きてたみたい」
蓮は頷いて、冷めた麦茶を一口飲んだ。喉を通り過ぎるだけで、味はほとんど感じなかった。
「父さん、あれから何か言ってた?」
「ううん」
沙奈は湯呑みを両手で包みながら、静かに首を振った。
「でも、蓮。昨日の話、私もずっと考えてた」
沙奈はテーブルの上に視線を落とした。
「守るとか、離すとか、そういう話をする前に、まず知らなきゃいけないことがあると思うの」
「何を?」
「郷が、何をそんなに恐れているのか」
蓮は沙奈を見た。
「お父さんが郷を出たのは、蓮が生まれる前でしょう。それなのに、あの人たちは今になって、こんなに執拗に蓮を――ううん、私たち家族全員を追ってる。ただ人間と暮らしているというだけで、ここまでするとは思えない」
「反共存派だから、じゃないのか」
「それだけなら、お父さん一人を狙えばいい。柚葉ちゃんまで調べ上げて、店まで見張る必要はないはずよ」
沙奈は湯呑みを置いた。
「郷は、蓮の力そのものを恐れてる。私にはそう思える」
蓮は黙り込んだ。自分の力について、まだ知らないことが多すぎることに、改めて気づかされた。相手を癒やす力。でも、それだけでないことも、うすうす分かっている。誰かを癒やすたび、自分の中の何かが、少しずつ相手に移っていく感覚があった。
「父さんに聞いても、はぐらかされるだけだった。……でも、父さんが持ってるものの中に、何か手がかりがあるかもしれない」
そこへ、灰斗が二階から下りてきた。ちょうど今の話を聞いていたのか、その顔にはいつもの飄々とした様子がなかった。
「沙奈、その話は、まだ――」
沙奈は遮るように言った。
「あなた……いつまでそんなこと言っているの? 蓮に、理由も分からないまま逃げ続けさせるつもり?もう、隠しておける段階じゃない」
灰斗は何も言わず、拳を握りしめていた。
「あなた、郷から持ち出したものがあるんでしょう」
蓮ははっとした。店で父が答えなかった、あの問い。「この店に、何があるんだ」という自分の言葉が、頭の中で蘇った。
「……全部は、渡してこなかった」
灰斗はようやく口を開いた。
「郷を出るとき、一つだけ持ち出したものがある。ずっと、自分の部屋にしまっておいた」
「それが、店にあるものと関係してるのか」
蓮は聞いた。
「店にあるのは写しだ。本物は――」
灰斗は言葉を選ぶように、一度言葉を切った。
「お前も、小さい頃に見たことがあるはずだ。俺の部屋にある、黒い革表紙の古い本だよ」
蓮の記憶の奥で、何かが繋がった。子供の頃、父の部屋でこっそり見た、重く古い本。あれには触るなと、珍しく強い口調で言われたことを覚えている。
「あの本に、何が書いてあるんだ」
灰斗は蓮の目をまっすぐ見て答えた。
「……あの禁書には、お前と同じ力を持っていた人間の記録が残ってる」
蓮は息を止めた。
「誰の記録だよ」
「それは、俺から説明するよりも……禁書を自分で読んでもらった方が早い」
父の表情は、今まで見たことがないほど重かった。
◇
灰斗の部屋は、店よりもさらに物が少なかった。ベッドと文机、そして壁一面の作り付けの棚。カーテンは閉め切られ、電灯の光だけが室内を照らしていた。棚には修繕途中の古書が並んでいたが、その一番奥、鍵のかかった小さな引き出しに、灰斗は手をかけた。階下では、沙奈が居間で待っている。柚葉には、まだ何も知らせていなかった。
「本当に、見ていいのか」
蓮は聞いた。
「お前が聞いたんだろう」
灰斗は鍵を差し込みながら答えた。
「今さら、見せないという選択肢はない」
鍵が回る音がした。引き出しから取り出されたのは、思っていたよりずっと小さな本だった。子供の頃に見た記憶では、もっと大きく、重く感じていた。今、灰斗の手の中にあるそれは、黒い革表紙が乾いてひび割れ、角が丸く磨り減っている。表紙の隅には、何かで焦がしたような跡が残っていた。
「これ……」
蓮はその跡を指さした。
「郷を出るとき、火をかけられかけた。持ち出したこと自体が、許されないことだったからな」
灰斗はしばらく、それを開こうとしなかった。両手で本を包むように持ったまま、じっと表紙を見つめていた。その指先がかすかに震えている。
「父さん?」
「……昔、これを郷から持ち出したとき、俺は正しいことをしたと思ってた」
灰斗はぽつりと言った。
「でも、開くたびに、それが本当に正しかったのか分からなくなる」
「どういう意味だよ」
「これは郷の正式な記録じゃない……郷の書庫から、誰かが消そうとしたものを、俺が写した。全部じゃない。写せたのは、ごく一部だけだ」
「消そうとした、って」
蓮の声が強張る。
「記録ごと、消すってことか。どうしてそんなことを」
「異端者についての記録は、本来なら残さない。存在そのものをなかったことにする。それが郷のやり方だ。」
灰斗は本の表紙を、指先でなぞった。
「残せば、誰かがいつか読む。読めば、傷つく者が出るかもしれない。でも、なかったことにするほうが、俺には耐えられなかった。……それが正しい選択だったのか、今でも分からない。お前に見せる今日この日でもだ」
蓮は、その言葉の重さをすぐには飲み込めなかった。父がこれほど長く、一人で何かを抱えていたことに、初めて気づかされた。
「その人、俺と同じ力を持ってたんだよな」
灰斗は答える代わりに、蓮の目をじっと見た。
「似てるのか。それとも、同じなのか」
「……読めば分かる」
そう言われ、ようやく表紙を開いた。黄ばんだ紙の匂いが、部屋に広がる。
蓮は思わず身構えた。恐ろしい何かが書かれているのではないかと、覚悟していた。知ってしまえば、もう後戻りはできない。
最初のページには、かろうじて読み取れる一文だけが記されていた。
――その男は、人を癒やす力を持っていた。




