第19話 離れるべきか
翌日、蓮は放課後まっすぐ灰斗の店へ向かった。柚葉の件を、直接伝えておきたかった。
店の少し手前で、蓮は足を止めた。道路の向かい、電柱の陰に男が立っている。柚葉から聞いていた人相――三十代半ば、瘦せ型――とは明らかに違う。この男はもっと若く、がっしりしている。目つきだけは、堅気のものではないと一目で分かった。
別人だ。つまり、向こうは一人ではない。
蓮は男を睨み返しながら、店のドアを開けた。古びたベルが鳴る。埃と紙の匂いが鼻をつく。棚には背表紙の色褪せた古書がぎっしりと詰まっていて、奥のガラスケースには誰が買うとも思えない古い時計や印章が並んでいる。カウンターの奥で本の修繕をしていた灰斗が、顔を上げずに言った。
「遅かったな」
「父さん、外に――」
「知ってる」
灰斗は手元の作業を止めなかった。
「三日前から、ずっとあそこにいる」
「三日前から?」
蓮は声を落とした。
「気づいてたなら、なんで放っておくんだ」
「三日も見張っていて、まだ何もしてこない。周りを探ってるんだろう」
灰斗の手が、初めて止まった。
「……昔もこうだった」
「え?」
「郷にいた頃だ。誰かを異端だと決めたら、すぐには手を出さない。まず周りを探る。誰と会ってるか、どこへ行くか、どれだけ大事なものがあるか。……俺も、見られる側になったことがある」
灰斗の声には、思い出したくない何かをなぞるような響きがあった。
「あの頃と同じだ。嫌なやり方だよ、これは」
何と言えばいいか分からず、黙って灰斗を見た。
「だったら、なおさら早く動いたほうがいいんじゃないのか。柚葉まで狙われたのに、父さんは指をくわえて見てるだけなのか」
「うちは古書店だぞ」
灰斗はようやく蓮を見た。
「客も来る。俺が急に外へ出て騒ぎを起こせば、店ごと目をつけられる。それに、相手の狙いも分からないまま動けば、こっちが下手を打つ」
「狙いなんて、俺たちを潰すことに決まってる」
「決めつけるな」
灰斗の声が少し強くなった。
「そうやって早まって動いた奴を何人も見てきた。大抵、余計に事態を悪くしただけだった」
蓮は唇を噛んだ。灰斗の言うことは分かる。それでも、じっと見ているだけの自分が許せなかった。
「あいつらは、父さんを見てるのか。それとも――」
蓮は棚の古書に目をやった。どれも、ただの人間向けの古本には見えなかった。
「この店に、何があるのかを見てるのかもしれないな」
「店に、何があるんだ」
灰斗はすぐには答えなかった。カウンターの下の引き出しにちらりと目をやり、それからまた蓮に視線を戻した。
「今話すことじゃない。……それより柚葉くんの話を聞かせてくれ」
蓮はその態度に何かを察したが、それ以上は聞かなかった。柚葉に起きたことを、一つずつ話す。話し終えると、灰斗はしばらく考え込んでいた。
「じゃあ、もう時間の問題だったということだな」
「どういう意味だ」
「俺の店も見張られてる。柚葉くんも狙われた。……お前だけの話じゃなくなってるってことだよ、蓮」
蓮は拳を握った。
「だったら、捕まえて聞けばいい。何が目的なのか」
「やめとけ」
灰斗は即座に止めた。
「一人捕まえたところで、後ろに何人いるか分からない。それに――向こうが本気で隠れる気なら、お前に姿を見せたりしない。わざと見せてるんだ。お前がどう動くか、見てる」
蓮は反論しようとして、やめた。納得したわけではなかった。ただ、父の性格上、これ以上言っても平行線だと分かっていた。
店を出ると、日はすでに傾いていた。いつもと同じ帰り道のはずなのに、すれ違う人の視線一つ一つが気になった。あの男は、もう見ていないだろうか。それとも、別の誰かが見ているのだろうか。
灰斗は、店に何があるのかを、最後まで言わなかった。郷が見ているのが、本当に蓮一人の問題ではないのだとしたら――その「何か」はどう関係してくるのか。
*
その夜、黒瀬家の居間に四人が集まった。蓮、柚葉、灰斗、そして沙奈。柚葉は、蓮が店からの帰りに連絡して、家に来てもらっていた。一人にしておくのが不安だった。
蓮は、柚葉に起きたことと、灰斗の店が見張られていることを、順に話した。
話を聞き終えた沙奈は、何も言わずに柚葉の手を握った。柚葉もその手を握り返した。テーブルの上のお茶は、誰の手もつけられないまま冷めていった。
沈黙を破ったのは、灰斗だった。
「柚葉くん」
灰斗の声は、いつもより硬かった。
「悪いが、しばらく俺たちから離れたほうがいい」
居間の空気が固まった。
「……どういうこと?」
柚葉が聞き返した。
「今の柚葉くんは、蓮の力を受けたというだけで狙われる立場になった。うちから距離を置けば、少なくとも向こうの目には映らなくなる」
「父さん」蓮が遮った。「今さらそんなこと言っても、もう遅い。あいつらは俺らの生活範囲を把握してるって言ってたんだ。離れたところで、意味がない」
「意味はある。今のところ、柚葉くんは『関係者』止まりだ。これ以上一緒にいれば、『標的』に変わる。その一線は、まだ引ける」
柚葉は俯いていた顔を上げた。
「もう巻き込まれてるよ」
その声は、意思を込めた強い響きを持っていた。
「私は今日、知らない男に声をかけられた。蓮のことも知ってるって言われた。今さら離れたところで、あの人たちが私を忘れてくれるとは思えない」
「だからこそだ」
灰斗は続けた。
「今なら間に合う。これ以上関わりを深くしなければ、向こうにとって柚葉くんの価値は薄くなる」
「価値って、何」柚葉の声が震えた。「私は物じゃない」
蓮は思わず立ち上がった。
「父さん、それは違う。柚葉を一人にするほうが危ない。今、誰にも守られてない状態で放り出したら、それこそ好きにされる」
「一人にはしない」
灰斗も声を強めた。
「俺の知り合いを頼って、しばらく別の場所で――」
「それだって、柚葉から友達も学校も日常も全部奪うことになる」
蓮は食い下がった。
「そんなの、離すことと同じだろ」
柚葉は、蓮の言葉に一瞬目を伏せた。何か言いかけて、唇が小さく動き、結局そのまま閉じられた。
それまで沈黙を保っていた沙奈が口を挟んだ。
「二人とも…柚葉ちゃんの気持ちは聞いたの?」
沙奈は柚葉を見て、それから二人を見た。
「離すべきか、そばに置くべきか。二人ともさっきからずっと、柚葉ちゃんの代わりに決めようとしてる」
その言葉に、柚葉はかすかに肯いた。蓮も、自分の言葉を思い返して黙り込んだ。守りたいという気持ちが先に立って、柚葉自身がどうしたいかを、一度も聞いていなかった。
「守るというのは、そばにいることだけじゃない」
灰斗は目を伏せたまま、絞り出すように言った。
「時には、離れさせることも守ることだ。……あのときも、俺は守ることばかり考えていた。結果として――」
灰斗はそこで言葉を止めた。
「誰のこと?」
蓮が聞いたが、灰斗は答えなかった。
柚葉が口を開いたのは、しばらくしてからだった。
「灰斗さんの気持ちは、分かります。でも」
柚葉は蓮を見て、それから灰斗を見た。
「離れるかどうかを、私以外の人が決めないでほしいです。私は、蓮のそばにいたいから、今ここにいます。危ないから離れろって言われて、はいそうですかって離れられるくらいなら、最初から巻き込まれてません」
蓮は何か言おうとして、口を閉じた。柚葉のその言葉は、灰斗だけでなく、自分にも向けられていると感じた。「守らなければ」と思う自分と、柚葉の意思を尊重するべきだと分かっている自分が、せめぎあっていた。
「……分かった」
灰斗は小さく頷いた。
「柚葉くんの気持ちは、聞いた。無理に離せとは、もう言わない」
沙奈が、皆の顔を順に見てから言った。
「では、守る方法を考えましょ」
蓮は柚葉を見た。柚葉の意思を聞いた今も、何をすれば守れるのかは分からなかった。




