第17話 穏健派の疑念
家に着くと、蓮は靴を脱ぐのももどかしく、居間に駆け込んだ。
「父さん!」
灰斗と沙奈は、夕食の支度を終えたところだった。蓮の剣幕に、二人とも驚いたように振り返る。
「どうした、蓮」
「郷の人間に会った。父さんの居場所が、割れたって」
その一言で、灰斗の顔色が変わった。皿を配っていた手が、途中で止まる。
「……どんな男だ」
「若い男。灰色っぽい着物みたいな服で、郷に行ったとき、木陰から俺たちを見てた」
「名前は」
「知らない。名乗らなかった」
「何か言っていたか」
「郷には、人間との共存を認めない連中がいるって。それで……」
蓮は、一瞬だけ言葉を切った。
「父さんのことを、裏切り者だって」
灰斗は、答えなかった。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。沙奈が、ちらりと灰斗の横顔を見る。
「……そうか」
否定は、なかった。
「……とうとう、か」
灰斗の声は、驚きよりも、覚悟していたことがついに来たというような、落ち着いた響きだった。それが、かえって蓮を不安にさせた。
「父さん、知ってたのか」
「いつか、こうなるとは思っていた。お前が郷に足を踏み入れた時点で、可能性はあった」
「なんで、あの時、教えてくれなかったんだよ……」
「言っても、お前を怖がらせるだけだと思った。それに、確証があったわけでもない」
蓮は、拳を握りしめた。知っていたなら、なぜ止めなかったのか。そう問い詰めたい気持ちと、今さらそれを言っても仕方がないという諦めが、胸の中でせめぎ合っていた。
「これから、俺たちは、どうなるんだよ」
声が、思ったより弱々しく出た。灰斗は、そんな蓮を見て、少しだけ表情を和らげた。
「大丈夫だ。すぐにどうこうなるものじゃない。それに――お前一人に、背負わせるつもりはない」
その言葉に、蓮は少しだけ胸の苦しさが軽くなった。
沙奈が、黙って灰斗の隣に腰を下ろした。その表情は、落ち着いていた。二人とも、蓮が思っていたよりずっと前から、この事態を予期していたらしい。それが、頼もしくもあり、同時に、自分だけが何も知らずにいたことへの疎外感も残った。
「これから、どうすればいいんだ」
蓮の問いに、灰斗はしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「郷には、共存に反対する者だけじゃない。中立の立場を取る者たちもいる。長老の一人に、俺の古い知己がいる。連絡を取ってみる」
「その長老は、何を知ってるんだ」
「分からない」
「じゃあ、どうするんだよ。何も分からないまま――」
「ひとまず明日、連絡を取る。それまでは、普段通りにしていろ」
夕食は、ほとんど減らないまま冷めていった。
その夜、蓮はなかなか寝つけなかった。壁の向こうから、両親の低い話し声が途切れ途切れに聞こえた。内容までは分からない。ただ、母の声が一度だけ、強くなったのが分かった。
翌日も、蓮は上の空のまま授業を受けた。柚葉には、まだ何も話せなかった。
灰斗が連絡をつけた相手から返事が来たのは、その日の夜になってからだった。郷からの使いが、家を訪れた。白髪の老人だった。穏やかな物腰だが、その目には、値踏みするような鋭さがあった。
「灰斗殿の頼みとあらば、無下にはできぬ」
老人は、そう言いながら、居間の椅子に静かに腰を下ろした。蓮は、その落ち着き払った態度に、かえって緊張した。味方であるはずの相手なのに、どこか値踏みされているような気配。
「だが」
老人は、蓮の方へ視線を向けた。
「噂は、こちらにも届いておる。お前が、他者に触れて何かを癒す力を持っていると」
「……はい」
「その力、お前自身は、どこまで制御できておるのか」
その問いに、蓮は、すぐには答えられなかった。
これまで、力を使うたびに、少しずつ扱いが上手くなってきたとは思っている。だが、本当に「制御できている」と言い切れるのか。柚葉に起きている変化。学校の後輩たちに起きている小さな異変。あれらは、蓮が意図して起こしたものではない。
「使えば使うほど、うまくなってる気はします。でも……」
「でも?」
「使った相手に、何か起きてることが、あります。俺が望んだわけじゃないのに」
正直に言葉にすると、それがどれほど頼りない答えかを、蓮自身が一番よく分かった。
「……分かりません。制御できてるとは言い切れません」
老人は、その答えに対して責めるでもなく、小さく頷いた。
「正直でよろしい。だが、それは同時に厄介なことでもある」
「厄介、というと」
「郷では、力の性質そのものが、時に脅威と見なされる。強いか弱いかではない。制御できるか、できぬか。制御できぬ力は、たとえ善意で使われようとも、いずれ誰かを傷つける」
老人の言葉は、静かだったが、蓮の胸に重く突き刺さった。
「反共存派だけが、お前を警戒しておるわけではない。中立の者たちの中にも、お前のことを危ぶむ声はある。灰斗殿への恩義があるゆえ、今は静観しておるが……それも、いつまで続くか分からぬ」
「俺は、悪いことをしようとしてるわけじゃない!!」
蓮は、思わず声を荒げた。
老人は、少しだけ目を細めた。
「分かっておる」
「じゃあ、何が問題なんだよっ」
蓮の声が、大きくなった。
「誰かが怪我をしていたら、治したいと思うだろ。苦しんでいる人がいたら、助けたいと思うだろ。それの何が悪いんだよ」
老人は、すぐには答えなかった。
「……善意だからこそ、厄介なのだ」
蓮は言葉を失った。
「自分は正しいと思っている者ほど、力を止める理由を失う。だから、恐れられる」
その言葉に、蓮は何も言い返せなかった。
柚葉や後輩たちの顔が頭をよぎる。自分では「治している」つもりでいたその力が、本当に、善意だけで済むものなのか。
「今は、灰斗殿への義理立てとして、様子を見よう。だが、蓮殿。お前自身が、その力とどう向き合うか――それを、決めておくことだ」
老人は、そう言い残し、夜の闇の中へ姿を消した。
残された居間には、しばらく誰の声もなかった。灰斗は目を伏せ、沙奈は、そっと蓮の肩に手を置いた。その手のひらの温かさだけが、今の蓮には、かろうじて支えになった。
蓮は、自分の両手を見た。
柚葉に触れた手。
猫に触れた手。
後輩たちに触れた手。
今まで、誰かを助けていたと思っていた。
けれど、それだけではなかったのかもしれない。
「……俺の力って、何なんだろう」
蓮の呟きに、灰斗は答えなかった。
(第二部・完)




