第16話 郷からの使者
その日は、朝から妙に肌寒かった。
九月の終わりには、まだ少し早い冷たさだった。窓を開けたとき、蓮は思わず肩をすくめた。理由もないのに落ち着かなかった。
休み時間、柚葉がいつものように隣の席までやってきた。
「蓮、今日考え事してない?」
「そう?」
「そうだよ。さっきから三回くらい呼んだのに」
「……ごめん」
柚葉は少し首をかしげた。
「なんか、悩みでもあるの?」
「別に」
そう答えたものの、蓮自身、何を考えているのか説明できなかった。
昨日のことが頭から離れない。柚葉の痛み。自分と同じ場所に走った柚葉の痛み。そして、それを「嫌じゃない」と言って笑った柚葉。
大丈夫だと思いたいのに、胸の奥には、小さな棘が残っていた。
放課後、柚葉は友達に呼ばれて、先に教室を出ていった。「また明日ね」と手を振る笑顔は、昨日までと何も変わらなかった。
一人で校門を出て、いつもの通学路を歩く。
柚葉は本当に、何とも思っていないのだろうか。「嫌じゃない」という言葉を信じたかった。聞けば済むことなのに聞けない。もし「本当は怖い」と返ってきたら、自分は何と答えればいいのか、分からなかった。
考えすぎなのかもしれない。柚葉が笑っているなら、それでいいんだ。何度もそう言い聞かせて、そのたびに、言い聞かせている自分に気づく。
父のことも、そうだった。柚葉のことを、どこまで話すべきか。今朝も父は、新聞から顔を上げないまま片手を挙げただけだった。いつもと同じ朝のはずなのに、その背中を見るのが、少し怖かった。
(帰ったら、どんな顔をすればいいんだろう)
角をひとつ曲がる。どこかの家から、夕飯の匂いが流れてきた。いつもと何も変わらない住宅街だった。だから、視界の端に見覚えのある人影が入ったとき、蓮はすぐには、それが異物だと気づけなかった。
電柱の陰に、じっと立っている若い男。
男は、こちらを見ていた。偶然、そこにいるようには見えなかった。蓮は歩く速度を落とした。男も動かない。
通り過ぎるべきか。それとも、声をかけるべきか。
迷っているうちに、男の方が先に動いた。まっすぐ、こちらへ向かってくる。蓮の喉が、わずかに鳴った。
どこかで見た顔だ、と思った瞬間、記憶が一気によみがえった。郷を訪れたあの日、木陰から蓮たちを見張っていた男。灰色がかった着物のような服を着て、感情の読めない目でこちらを見ていた、あの人物だった。
まさか、こんな場所で。
「――黒瀬蓮」
低く、抑揚のない声だった。
「お前……郷で見た」
「覚えているなら話が早い」
男は、蓮の数メートル手前で足を止めた。周囲に人けはない。夕暮れの住宅街は、静まり返っていた。
「用件は、何ですか」
「灰斗の居場所が、割れた」
「……父さんの?」
「そうだ」
「誰に、ですか」
「郷の者に」
「郷の人たちは、父さんがここにいることを知らなかったんですか」
「知らなかった者もいる。知っていて、黙っていた者もいる」男は言った。「郷も、一枚岩ではない。灰斗を探している者もいれば、見て見ぬふりをしている者もいる」
「あなたは、どっちなんですか」
男は答えなかった。ほんの一瞬、視線が揺れただけだった。
「お前たちが郷に来たことで、いくつかのことが繋がった。灰斗が人間界にいることも、お前がその息子だということもな」
「俺のせい、ってことですか」
「そういう意味ではない」
男の返事は早かった。しかし、その声には、わずかな苛立ちが混じったように聞こえた。
「郷の中には、人間との共存を認めない一派がいる。灰斗は、その一派にとって、裏切り者だ」
「……裏切り者?」
「ああ。あいつは郷でも、それなりの立場にいた。人間界との境界に関わる役目も、任されていたほどだ。それなのに、人間の女と番い、子まで成した。奴らにとっては、それだけで十分な背信だ」
裏切り者。その言葉が、妙に耳に残った。
蓮にとって、父はただの父親だった。朝、新聞を広げて、顔も上げずに「おう」と返す。具合が悪くても「寝不足なだけだ」と笑う。血を飲めない自分に、物心ついた頃から「無理に飲まなくていい」としか言わなかった。食卓でくだらないことを母に咎められて、バツの悪そうな顔で頭をかく。蓮の学校の話を、半分笑いながら、いつも最後まで聞いてくれる。
そんな父が、郷では「裏切り者」と呼ばれている。
蓮は、その言葉だけが、自分の知っている父とどうしても結びつかなかった。
「なんで、俺に、それを」
「警告だ」
男は、感情の読めない目のまま、淡々と続けた。
「奴らは、灰斗だけでなく、お前も、そしてお前の周りの人間も、狙う可能性がある。今のうちに、備えておくことだ」
「備えるって、どうやって……」
「それは、お前たちが考えることだ。俺は、伝えるだけの役目しか負っていない」
男は、そう言うと、踵を返した。
「待ってくれ」
蓮は、思わずその背に声をかけた。
「あんたは、誰の指示で来たんだ」
男は、一瞬だけ足を止めた。振り返ることはなかった。
「それを話す必要はない」
その言葉を最後に、男は夕闇の中へ、足早に歩き去っていった。
男の姿が角を曲がって消えても、蓮はしばらく動けなかった。
車が一台、目の前の道を通り過ぎていく。遠くで、犬が短く吠えた。
さっきまでと同じ住宅街のはずなのに、景色が違って見えた。電柱の影も、塀の向こうの暗がりも、誰かが潜んでいそうに思える。
誰かに見られている気がして、蓮は思わず振り返った。
誰もいない。
なのに、背中のあたりだけが、いつまでも落ち着かなかった。
心臓が、いやな速さで脈打っている。
逃げればいい。
そうすれば、少なくとも自分だけは巻き込まれずに済む。
でも――父はどうなる。柚葉は。母は。
蓮は、拳を握った。
自分だけ逃げるなんて、できない。
だったら、自分が守る。
その方法は、まだ分からない。
家に帰らなければならなかった。父に、このことを伝えなければ。
蓮は、夕闇に沈んだ家路を駆け出した。




