モノガタリ(2)前編
――女?
愁水は淵月を凝視したが、「女と見紛うほどの」という評判は例えであって、骨格は明らかに男のものだ。
知り合いかと問いたいところだが、どうせこの舞台のあと、淵月とは芝居茶屋で落ち合うことになっている。
淵月はすでに表情を消しており、一座の者を従えて深々と礼をしたのち、着座した。
お囃子の音が響き、千歳(*)が露払いとして舞う間に、淵月が翁の面をつける。
この時から、舞い手は〈神〉となる。
何千という眼差しが注がれるなか、淵月は気負うことなく舞っていた。
軽やかに袖を翻す舞い姿が、目に焼きつく。
――ありゃ、魔性だぜ。
と、京助の言葉が不意に浮かぶ。
神聖なはずの舞が、妖気を帯びて見えた。
舞い終えた淵月が翁の面を外し、再び深く礼をして、橋懸りから退出する。
そうして六曲を演じたのち――最後の『鵺』が、幕を明けた。
黒い乱れ髪で現れた鵺の亡霊は、旅の僧侶の読経に誘われて、赤髪に赤い鬼神面、金襴袴の姿となって、討たれる様を所作のみで再現してみせる。
射られ、四肢を刻まれ――闇夜を漂流し、やがて朽ちていく。
鵺はときに武将を演じ、また化物に戻る。
勝者と敗者の境すら、曖昧になっていく。
そして――。
――月日も見えず暗きより、暗き道にぞ入りにける……。
赤と金が交差する舞。鵺が扇をひらめかせ、お囃子と地謡が勢いを増す。
視線で暗い道を遠望したのち、鵺はまた、遥かな闇夜に消えてゆく――。
決して、長い曲目ではない。せいぜいが四半刻。
しかし、果てもなく流されていく化物を見ていると――夜の川ではなく己の心を、時を忘れて彷徨うような心地になる。
淵月の舞は隙がなく、鬼気迫る重々しさで場を支配し、緊迫した空気を漂わせる。
淵月が橋懸りの先に消えたのちも、〈呑まれた〉見物客たちは声を失い、微動だにしなかった。
――ああ、不気味で怖ろしい鵺だった。
――あれだけ怨みの念が強けりゃ、彷徨い出ても不思議じゃねえわな。
終幕と共に、見物客たちが取り憑かれたようにわっと感想を述べ合い、熱狂した様を見せる。
鵺、鵺、鵺。
今しがた見たものに触発され、その場で怪談を語る声すら聴こえてくる。
「――鵺が流されていくところが、一番凄かった!」
京が童らしい無邪気さで、声をあげてはしゃぐ。京助はまだ嗣巳の顔色を気遣っており、嗣巳が面倒そうに片手を振っていた。
「ありゃ、流れ足という足運びだ。波がうねるように、足を左右交互に運んで――摺り足の応用だな。水の上を歩いたり、幽玄な様を表したりする」
愁水が解説してやると、京が腕に飛びついてきた。
「愁水は、能も詳しいんだ?」
「詳しいって程じゃねえが、嗜み程度に習ったことはある」
〈若君〉と呼ばれていた頃、次期藩主として必要な学問からは遠ざけられていたが、体面を取り繕うため、絵や能の稽古だけは許されていたのだ。
「……愁さんの舞い姿、見てみたかった」
滝がぽつりと呟き、何故か頬を染める。
「人様に見せるようなもんじゃねえよ」
「――いや、なかなか様になっていたぞ」
横から嗣巳が口を挟み、愁水は顔をしかめた。
「お前、見てたのかよ」
「他に面白いものもなかったからな。不遜な童が、殊勝な顔して――」
嗣巳の足を踏んでやろうとしたが、さっと躱された。
「へえ、想像つかねえなあ。真面目にやってたのか?」
と、京助が茶々を入れる。
「最初は嫌々だったけどな。やってみると、意外と兵法に繋がるもんが多いんだ。拍子を踏む時にふらつかねえように、長袴で腰を据えるからな」
「ああ、想像ついたわ」
愁水が真顔で応じると、京助が苦笑して言った。
だが実際、武家のお抱えとなった猿楽師は武士に準ずる身分であるから、双方の交わりのなかで、あの強靭な胴作りの体系が整ったのだろう。
「――それじゃ、お仕事頑張って。あたしとお京ちゃんは、市を見て回るから」
滝と京が手を振って、反対の方角へと歩き出したかと思えば、京が駆け寄ってきた。
「あのね、あの淵月ってひと、ずっと心のなかで鵺に《《謝ってた》》よ。でも、変なの。他の人と違って、〈雑音〉が混ざってて……」
「お京、おめえ、勝手に人様の心を読むなって言ってるだろ。ちゃんと訓練してんのか?」
「ちゃんとしてる! じゃあねっ」
「こらっ、お京。帰ったら説教だぞ!」
京助に追い立てられた京が、頬を膨らませて、滝と雨月のもとへ駆け戻っていく。
その間、嗣巳は酷く不機嫌そうに目を眇めていた。
「なあ、『あの女』ってのはどういう意味だ。知り合いか?」
「……あれと《《同じ魂》》を見たことがある」
「ああ? 生まれ変わりってやつか?」
詳しく聞こうとしたが、京助が戻って来たため、中断する。
「――ここの芝居茶屋だ。嗣巳はどうする?」
京助が、芝居小屋の向かいの大茶屋で立ち止まった。座敷で諸侯や豪商を歓待する、高級料理茶屋だ。
「私は先に帰る」
「会わなくていいのかよ。縁のある相手なんだろ?」
愁水が声を潜めて問いかけたが、嗣巳が冷え冷えとした目を向けて、立ち去ろうとする。
そのとき、茶屋から一人の男が現れた。
「お二人とも、お待ちしておりました。――どうぞ、お連れ様も」
淵月がたおやかに、嗣巳に微笑みかける。
座敷で向かい合わせに座るときも、淵月の目は嗣巳を追っていた。
「……こいつが何か?」
愁水が問うと、淵月が口元を着物の袖で覆ったが、弧を描く細い唇は隠しきれていなかった。
「どうも、初めてお会いした気がしない。――前世からの縁でしょうか」
え、と京助が何を誤解したか、素っ頓狂な声をあげる。
ふふ、と小さく笑い声を立てて、淵月が改めて愁水に向き直る。そこから先は絵の依頼へと話柄が移り、至極真面目な仕事の話が続いた。
興行は残り十日。錦絵は最短三日で刷り上がるため、残り七日もあれば、興行中に地本問屋の店頭だけでなく、芝居小屋や周辺の土産屋でも相当数の売れ行きが見込める。
もともと情報源として流行を追うのが錦絵であるため、多少荒くはなるが、短期間で仕上げるのは造作もない。
いまは化物絡みの依頼しか受けていないため、京助の顔を立ててやることくらい、訳はないが――。
「いまここで素描させてくれるなら、今日中に仕上げてやる。筆と紙なら――」
愁水は懐に手を差し入れようとしたが、淵月に止められた。
「ここで、とは、味気ないと思いませんか?」
「そんなら――」
「近くに私の私邸がありますから、そちらでどうぞ。鵺の装束に着替えたほうが、風情があってよろしいでしょう?」
隣の嗣巳がぴくりと肩を揺らしたが、何も言わなかった。
何かしらの意図はあるようだが、少なくとも殺気は感じない。愁水としても断る理由はなく、話は纏った。
芝居茶屋を出ると、版元として方々に連絡を取るため、京助はそこで慌ただしく場を辞した。
「愁水、私もここで……」
「――毎夜、同じ夢を視るのです」
立ち去ろうとする嗣巳を引き留めるように、淵月が唐突に呟いた。
「夢のなかで、私は武家の女なのです。息子の他に頼りもなく、子の立身出世だけを神に祈り続けるような。――そこに現れたのは、神ではなく、血塗れの鵺でした」
「……縁起の悪い夢ですね」
嗣巳の素っ気ない物言いにも、淵月は薄い笑みを浮かべたまま続けた。
「女は祓い人どもから鵺をかくまい、介抱しながらこう思うのです。数多の祓い人が討伐できずにいた鵺を、我が子が見事討ち果たしたなら、どうか――と」
――そこで女は、鵺に「討たれるふりをしてはどうか」と持ちかけるのです。
――追われることを煩わしく思っていた鵺は、承諾しました。
――普通の弓で、鵺は死なないでしょう。けれど、母と化物の取引など聞かされていなかった息子は、代々相伝の弓と鏑矢を持ち出してしまった……。
「弓の名は雷上動、二本の鏑矢はそれぞれ水破と兵破、いずれも夢の中で与えられたという、神懸かりの武具でした」
「……さすがは猿楽師殿。夢の中でも《《創作》》をなさるとは」
嗣巳の目が冷たく光る。その反応で、創作ではないのだと分かった。
背後に朧がいるのだから、嗣巳の正体は知っていて当然だろう。では、《《淵月自身》》の意図は何か。
「淵月さん、聞かせてくれ。あんたは鵺を演じているとき、〈誰〉の視点でいる? 夢の女か、武将か、鵺か――境が曖昧にはならねえのか?」
淵月の唇が、深い笑みを刻む。ここで初めて、愁水に関心を向けたようだった。
「お察しの通り、境はないのですよ。けれど役を演じるにあたって、対象を掘り下げて理解し、足りない部分は何かしらで補う必要があります。貴方もそうでしょう、愁水殿?」
これは絵にも共通するところがあり、愁水は軽く頷いた。もしも〈架空の化物としての鵺〉を描くのであれば、まずは物語や和歌を読み込むだろう。
「その点、私は誰よりも鵺を知っております。ですから、私だけが鵺を理解し、演じることができるのだと――確信しているのです」
そう断言した淵月が、嗣巳に歩み寄る。
生温かく淀んだ気配が、ざわりと蠢いた。淵月の身から溢れ出た妖気――《《狂気》》に、雑踏に潜む化物たちが反応を示す。
目には視えなくとも、その負の連鎖は人を不安に駆り立てる。
それに――いまは、黄昏時だ。
小さな化物が寄り集まってくると、通行人が悲鳴を挙げた。昼と夜の境目――その境界は、常人の目にも、化物が映る。
場は騒然となり、一刻も早く、元凶である淵月を引き離す必要があった。
「淵月さん、詳しい話は――」
と、愁水が手を伸ばすまえに、淵月の体が傾き、崩れ落ちそうになる。
「〈夢〉などに囚われていると、《《魂が死ぬぞ》》」
寸前で淵月の腕を引き上げた嗣巳が、冷ややかにそう告げたが、淵月は逆に嗣巳の手を掴んで誘いかけた。
「私のもとへ、おいでなさい。貴方は、私と共に在るべきだ」
「断る。夢から醒めたくないのならば、望み通りにしてやろう」
にべもなく一蹴した嗣巳が、淵月を突き飛ばし、鋭利な爪を振り上げようとする。
「――もういい。嗣巳、先に帰ってろ。天泣を呼ぶか?」
愁水が間に割って入ると、嗣巳が疲れたように首を横に振った。
「いや……いい。あれも結界を張り続けて、疲れているはずだ」
嗣巳のほうも、顔色は平生よりも悪い。このまま一人で帰すのも抵抗があるのだが、嗣巳にも大妖としての矜持があるのだろう。
「そんなら、無理強いはしねえが。お前も、妙なやつに執着されたもんだな。止められるならいいが――」
「止まりはしないだろう。鵺を演じる者は、その身の上を鵺に仮託する」
突き飛ばされてもなお、妖しげに微笑む淵月を見やり、嗣巳は目を細めて言った。
「――人間は〈モノガタリ〉を必要とするものだろう?」




